政策研究大学院大学 篠田邦彦
はじめに
2026年の世界経済は、かつてないほど大きな不確実性に直面している。
2025年1月に第二次トランプ政権が発足し、包括的な相互関税政策をとったことにより国際貿易秩序が揺らいだ。同年10月に高市政権が発足した後、2026年2月に米国・イスラエルによるイラン攻撃を契機とした中東情勢の緊迫化、5月にトランプ大統領訪中などの動きがあった。企業経営者の多くは、「世界はどこへ向かうのか」、「中国事業をどうすべきか」、「次の成長市場はどこなのか」と頭を悩ませているだろう。
しかし、こうした変化を個別の出来事として捉えるだけでは本質は見えてこない。現在進行しているのは、冷戦後のグローバリゼーション前提とした自由貿易体制の世界から、地政学と経済安全保障が大きな影響力を持つ新しい国際経済秩序への移行である。米中の戦略的競争が進む中、日本企業に求められているのは、「脱中国か、中国継続か」という単純な二者択一ではない。変化する国際環境の中で、自らの競争力を維持しながら持続的な成長を実現するための新たな戦略を構築することである。
米中首脳会談が示した現実
5月半ばに行われたトランプ大統領と習近平国家主席との首脳会談は、世界中から注目を集めた。会談前には、米中対立の激化や新たな経済摩擦への懸念も広がっていたが、結果は多くの人々の予想とは異なるものだった。
確かに、両国は台湾問題やAI等の技術覇権競争、安全保障分野で依然として厳しく対立している。しかし一方で、経済安全保障上重要でない分野での貿易委員会・投資委員会の設立、中国による米国産農産物や航空機の購入拡大、レアアース供給問題への対応などが議論された。両国とも対立を管理しながら経済関係を維持する方向性を確認したと言える。このことは何を意味するのか。それは、米中両国とも全面的な経済分断を望んでいるわけではないという現実である。
近年、「デカップリング(切り離し)」という言葉が盛んに使われてきた。しかし実際に進んでいるのは、デカップリングではなく「デリスキング(リスク回避)」あるいは「選択的相互依存」である。半導体、AI、量子技術、重要鉱物など安全保障に直結する分野では貿易・投資に関連した規制を強化する一方で、経済安全保障上重要でない一般消費財やサービス分野では経済関係を維持するという方向に向かっている。
米国自身が中国との経済関係を維持しようとしている中で、日本企業だけが中国市場から撤退する合理性は乏しい。日本企業にとって重要なのは、中国市場を全面的に放棄することでも、中国への依存を続けることでもない。どの事業が中国で継続すべきものであり、どの事業を他地域へ分散すべきなのかを冷静に見極めることである。
高市政権が目指す「進化した自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」
こうした国際環境の変化の中で、高市総理大臣は2026年5月のベトナム訪問中の外交政策スピーチで「進化した自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」を打ち出した。
2016年にケニアのTICAD会合で安倍元総理が提唱したFOIPは、「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序」を目指す外交ビジョンとして発展してきた。しかし、この10年間で世界は大きく変わった。米中の戦略的競争の激化、ロシアによるウクライナ侵略、中東情勢の不安定化、AI革命、グローバルサウスの台頭などにより、国際社会は不安定な多極化時代へ移行している。
こうした中、進化したFOIPが掲げる中心概念が、「自律性(autonomy)」と「強靱性(resilience)」である。国家レベルで言えば、特定国への過度な依存を避け、自らの意思で行動できる能力を持つことが自律性であり、危機が発生しても社会や経済を維持できる能力が強靱性である。具体的には、経済分野では、エネルギー・重要鉱物のサプライチェーン強靭化、AI・データ時代の経済基盤の構築、グローバルサウスとの協力拡大、官民一体での市場創出などが重点分野として掲げられている。
これは企業経営の視点からみると、「リスク回避」だけでなく、「成長機会の創出」を目指す戦略と理解できる。特定市場への依存、特定サプライヤーへの依存、特定技術への依存を避けること、そして、関税引上げや地政学変動が発生しても事業を継続できる体制を構築すること、これこそが、これからの企業競争力の源泉になる。新たな貿易・投資ビジネス戦略を通じて自律性や強靭性を高めた企業ほど、危機の際に競争優位を獲得するのである。
「通商戦略2026」が示す新しい自由貿易の形
現在、経済産業省が検討している「通商戦略2026」は、そのような時代認識を反映したものとなっている。そこでは、「与えられた自由貿易」から、「掴み取る自由貿易へ」という考え方が示されている。冷戦終結後のグローバル化時代には、企業は効率性を追求するだけでよかった。最も安い場所で生産し、最も大きな市場で販売すれば利益を最大化できた。しかし現在は違う。大国による関税、輸出規制、経済制裁、重要鉱物規制、データ規制、経済的威圧などが常態化しつつある。こうした状況下では、経済安全保障と自由貿易を対立概念として捉えるのではなく、両立させる必要がある。
通商戦略2026では「ハイブリッドな通商戦略」を目指している。第一は経済連携・連結性の強化を通じた「信頼できる経済圏」の構築である。アジア経済・エネルギー・資源強靭化構想(AZEC2.0)、EPA交渉の推進とCPTPPの戦略的活用、インド洋アジア経済圏イニシアティブなどがその柱となる。第二は強靭なサプライチェーン構築のための「グローバルな危機管理投資・成長投資」である。POWERR Asiaなどアジアのサプライチェーン強靭化支援、重要鉱物等のサプライチェーン強靭化、戦略17分野のグローバル官民投資の実践などが含まれる。
日本としては、「ハイブリッドな通商戦略」を通じて、信頼できる経済パートナーで在り続けると共に、世界の課題解決を通じて日本の世界における付加価値を最大化することを目指している。その中で、米国・中国とも関係を維持しながら、ASEAN、インド、中東、豪州、アフリカ等との連携も強化し、多様な市場や供給網を確保することが必要とされている。
中東危機に対応したPOWERR AsiaとAZEC2.0
2025年6月、2026年2月の米国・イスラエルのイランに対する軍事攻撃を契機とした中東情勢の緊迫化は、エネルギー安全保障の重要性を改めて浮き彫りにした。日本の原油輸入の約96%は中東に依存している。ホルムズ海峡からのエネルギー・資源の供給が滞ることの影響を受けているのは、日本を含むアジアであり、また、その影響は、サプライチェーンで密接に結びつく全ての国に及ぶ。仮に海峡の封鎖や航行制限が長期化すれば、原油価格の高騰だけでなく、電力料金の上昇、物流コストの増加、原材料価格の上昇など、企業の経営全体に深刻な影響を与える可能性がある。
こうした問題意識の下で日本政府が進めているのが、「POWERR Asia(アジア・エネルギー・資源供給力強靱化パートナーシップ)」である。ASEANやインド太平洋諸国とともに緊急時に物資調達やサプライチェーン維持を進め、中長期的にアジア経済・エネルギー強靭化を進めようとするものである。企業にとって重要なのは、これが新たな投資機会でもあるという点だ。LNG、重要鉱物、蓄電池、再生可能エネルギー、省エネ設備、スマートグリッド、小型モジュール炉(SMR)などの分野では、今後大きな市場が形成される可能性がある。
こうした新たな取組は、エネルギー安全保障、経済成長、脱炭素化の同時実現を目指すAZEC(アジア・ゼロエミッション共同体)に経済・エネルギー強靭化の視点を加えて「AZEC2.0」として包括的な地域協力構想として進化させていくことにつながる。例えば、インドネシアの地熱発電、ベトナムの洋上風力、タイのEV産業、マレーシアの半導体など、日本企業が技術力や人材育成能力などの強みを発揮できる分野は数多い。企業にとっても、エネルギー調達先の多様化、省エネ投資、GX投資は競争力強化のための戦略投資になる。
中国とASEANの市場の見通し
それでは、日本企業が事業の海外展開をする上で重要な中国、ASEANなどアジア市場をどのようにみればいいのだろうか。
中国は、引き続き巨大な購買力を持つ「市場」であると同時に、部素材や人材等の「供給源」でもある。AIやEVなど国際競争力が高い分野も存在し、地理的に近く、経済的にも重要な位置づけである。しかしながら、ビジネス面での課題は多い。例えば、日本企業は、外商投資規制、国産品優遇、データ規制、重要鉱物の輸出規制、強制技術移転、知的財産侵害、反スパイ法など様々な課題に直面している。このため日本としても主張すべきは主張し責任ある行動を求めつつ、対話も重ね、共通の課題については協力していくことが基本的な対応方針となる。
具体的には、透明性ある法制度・運用や公平な競争環境の実現などといったビジネス環境整備を求めるとともに、環境・エネルギー、高齢化などの共通課題や、個別の政策連携分野、中国側も競争力が高い分野等について、協力を進めていくことが望まれる。また、国際的な連携のもとで、WTOやRCEPなどの国際的なルールの遵守を求めていくことが必要である。企業として重要なのは、中国事業について、①中国市場が売上面で不可欠か、②技術流出リスクは管理可能か、③代替生産拠点を確保できているか、④政治リスクに耐えられる体制があるか等について不断にリスクを管理しながら有望な事業を継続していくことである。
また、日本企業にとって有望な成長市場はASEANである。人口約7億人を抱え、中間層が拡大し続けるASEANは、中国や米国と並ぶ重要市場になりつつある。日本企業が投資を特に積み重ねてきている地域であり、累積投資によって形成されたサプライチェーンを最大限活用し、日系企業の競争力を維持・強化していくことが重要である。しかし、ASEANを中国の代替市場として捉えるだけでは成功できない。第一に、徹底した現地化である。日本式経営をそのまま持ち込むのではなく、現地人材に権限を委譲することが重要である。第二に、デジタル化への対応である。AIやデータ活用を前提としたビジネスモデルへの転換が求められる。第三に、GX(グリーントランスフォーメーション)である。ASEAN各国でも脱炭素投資が急速に進展している。第四に、人材育成である。日本企業の最大の強みは、長期的な人材育成能力にある。第五に、官民連携である。FOIP、AZECなどの枠組みの下、日本政府のODAや輸出信用などの政策ツールを積極的に活用することが重要になる。
不確実性の時代における日本企業の海外展開戦略
今後の世界は、複数の大国とミドルパワーが共存する多極化時代へと移行するだろう。その中で、日本は、米中二国間の間でのバランシング、西側諸国との連携を通じたルール形成主導、グローバルサウスとの地域戦略に基づく連携強化を進めようとしている。企業も同様である。特定の国に賭けるのでなく、複数の市場、複数のサプライチェーン、複数の技術パートナーを組み合わせる能力が競争力を左右する。企業に問われているのは、インド太平洋全体を視野に入れながら、いかに柔軟で強靭な事業ポートフォリオを構築するかである。
FOIPが提唱する自律性と強靱性は、国家だけでなく企業にとっても重要な概念である。日本企業が目指すべきなのは、「脱中国」ではない。中国を含むインド太平洋全体を視野に入れながら、多様な市場、多様な供給網、多様なパートナーを組み合わせる戦略的経営である。その実現を支えるのが、進化版FOIP、通商戦略2026、AZEC2.0、そしてPOWERR Asiaなのである。不確実性の時代だからこそ、自律性と強靱性を備えた企業が成長する。これが、これからの日本企業に求められる新しい生存戦略である。
今後10年間で最大の成長市場はどこか。それはグローバルサウス諸国であると考える。ASEANの人口は約7億人、インドは世界最大の約15億人の人口を抱える。さらに中東、アフリカでも人口の増加や所得水準の向上が進んでいる。現在とりまとめ中の「通商戦略2026」の中でもアジア大洋州、南西アジア、中東、アフリカ、中央アジア・コーカサスなどグローバルサウスに対して、各国・地域の特性を踏まえた、連携に向けた有望分野を定めるとともに、主要なアクションを提言している。日本企業が強みを持つインフラ、エネルギー、環境技術、医療、デジタル化、人材育成などの分野では大きなビジネス機会が存在しており、官民が連携して具体的なプロジェクトに取り組んでいくことが望まれる。
参考文献
- 外務省「進化した『自由で開かれたインド太平洋』」(2026年5月)
- 経済産業省「通商戦略2025」(2025年6月)
- 経済産業省「通商戦略2026の策定に向けて」(2026年5月)
- 首相官邸「エネルギー強靱化に関するAZEC+オンライン首脳会合についての会見」(2026年4月)
- JETRO「トランプ政権2期目で2度目の米中首脳会談、成果は限定的との見方」(2026年5月)
ご略歴

篠田邦彦教授
政策研究大学院大学(GRIPS)
教授、政策研究院参与
| 学 位 | 米国カーネギーメロン大学産業経営大学院(GSIA)で修士号を取得 |
|---|---|
| 専門分野 | 通商政策、国際経済政策 |
| 現在の研究対象 | アジア経済、アジア地域経済統合、インド太平洋協力 |
1988年に通商産業省(現在の経済産業省)に入省後、APEC室長(2005年~2008年)、資金協力課長(2008年~2010年)、アジア大洋州課長(2010年~2012年)、通商交渉官(2017年~2019年)等を歴任し、主としてRCEP等の経済連携協定交渉やASEAN・中国・インド等との経済・産業協力の業務を担当。また、在フィリピン日本国大使館(1996年~1999年)、海外貿易開発協会バンコク事務所(2002年~2005年)、石油天然ガス・金属鉱物資源機構北京事務所(2012年~2014年)、日中経済協会北京事務所(2014年~2017年)などアジアでの勤務経験が長い。2019年より政策研究大学院大学に出向し、2022年に政策研究大学院大学教授に就任。アジア経済、インド太平洋協力等の研究・教育に従事。