1初めての海外駐在-グローバル化のはじめの一歩
1985年に東芝に入社し、第三国際事業部通信機器部に配属され、米国の現地法人支援担当となってから6年。国際企業人という研修プログラムの一環で東芝アメリカ情報システム社に赴任した。
研修とは名ばかりで、要は駐在員の下働き。日本本社からの指示で米国のアメリカ人スタッフにはやらせられないような仕事や、何でも屋的な立場で駐在員と一緒に日々夜遅くまで働いていた。ある程度予想はしていたが、日本で働いているのと何ら変わり無いような生活に失望もしていた。
ある日、ディーラーのセールストレーニングに参加する機会を得た。ロールプレイング形式で、自分たちの製品をお客様に説明しなければならない。日本人の参加者は自分だけ。自分の前の順番の営業マンの声が震えているので横から顔を見上げると、彼は耳まで真っ赤にして一生懸命話していた。
休憩の時に話しかけた。「緊張してたの?」、「もちろん。」と答える。
アメリカ人はみんな緊張なんかしないでプレゼンなど簡単に出来てしまうのだと思い込んでいた私に、彼は、「子供の頃から学校でプレゼンとかの授業があって、人前で話すことを勉強してきたけれど、それでも未だに緊張するよ。」と言った。私は、「何だ、アメリカ人も変わらないんだ。」と気づいた。
とにかく、折角アメリカにいるのだからと、アメリカ人の輪に入ることを心がけた。
積極的に現地人スタッフに話しかけ、ランチに誘われればついて行き、週末にバーベキューをしたり、ビーチバレーをしたり、多くの時間を日本人駐在員よりもアメリカ人のスタッフと過ごすようになっていった。
最初は、殆ど、通じなかった自分の下手くそな英語でも徐々にコミュニケーションが出来るようになっていった。暫くして、日本語を勉強したいというアメリカ人スタッフの要望で、帯同していた妻と一緒に日本語教室を始め、いつの間にか参加者も増えていった。
一年間の研修を終えて、2週間後に日本に帰国することになっていた週末の土曜日、私はソフトボールの試合に出場していた。相手はラップトップPCが全米シェアナンバー1を獲得して飛ぶ鳥を落とす勢いのコンピューターシステム部門。後に東芝の社長となる西田さんが率いていた。我がチームは複写機部門のチーム。日本人は自分一人。
試合は、9対8で最終回逆転サヨナラ勝ち。
あの日、カリフォルニアの青い空高く、みんなで歓喜のグラブを放り投げた。
後日その写真は、東芝第三国際事業部の広報誌に大きく掲載された。
2シンガポールの洗礼
1998年4月1日、私はシンガポールチャンギ空港に降り立った。
その10年程前からシンガポールには何度も出張で来ており、チャンギ空港の風景も見慣れたものであったが、パスポートコントロールを出たあと、私は東芝シンガポール社の複写機事業部長としてこれから立ち向かうであろう大きなチャレンジに身震いした記憶が今も鮮明に蘇る。
前年の1997年7月に起きたタイの現地通貨の対米ドルの大幅下落に端を発した経済危機、所謂「アジア通貨危機」の激震の余波で、アジア市場の経済は回復への道筋さえ見えない状況だった。
東芝シンガポール社の複写機部門は、東芝の複写機事業の東南アジア諸国・インドを含む西南アジア諸国・中近東及びアフリカ諸国を管轄する部門であり、担当地域は30数カ国。厳しい事業環境の下、事業の立て直しを委ねられての赴任である。当時、若干36歳だった。
赴任早々、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどの東南アジアの主要国を回り状況を把握したが、各国とも、市況は悪化したままであり、回復には相当な時間を要するように見えた。平日に出張し、週末にその結果を東京に報告し判断を仰ぐ。「厳しい状況は分かるが、それをなんとかしろ。そのためにお前を出したのだから。」
無我夢中で、一日も休みを取らずに働き続けていたが、赴任して二週間目にスタッフから辞表を受け取った。「新しい事業部長が着任して、この先どうなるかと思っていたけれど、何も変わらなそうだから辞めます。」
結局、最初の一ヶ月で5人の辞表を受け取った。
与えられた予算を達成するためには、大きな市場を狙うしかない。ターゲットに選んだのは、インド。赴任した4月末、ニューデリーへと向かった。
出張には、シンガポール人の営業担当者が同行。最も目をかけていたスタッフ。優秀だし、積極的だし、性格も明るいし、厳しい状況でも一緒に頑張ってくれていた数少ないスタッフだった。
当時、インドの売上はほぼゼロ。市場開拓どころかパートナー企業との関係も築けていなかった。2日間のハードな議論を重ねて、相当額の販促支援をする前提で、それなりに大きなターゲットの合意に辿り着き、着任以来初めての達成感のある出張となった。
同行した営業スタッフも非常に頑張ってタフな交渉をサポートしてくれた。
ところが、出張から戻った翌日、その彼女から辞表を出された。6通目の辞表。
「ボスが来る前から転職活動をしていて、ある大きな通信関係の会社から内定をもらいました。」
着任してから我武者羅に働き続けて、自分なりに一生懸命やっていたつもりだったが、一番身近で頑張ってくれていたスタッフの気持ちがどこにあるのかも全く理解できていなかった。私は自分の至らなさに愕然とした。
通貨危機の影響が残る厳しい状況で、事業はどの方向に向かっていけばいいのか、いつも東京からの指示を仰いでいた。「東京の指示はこうだから。」「東京は賛成してくれないかもしれないから。」いつの間にか、口癖のようになっていた自分。
自分の頭で考えよう。
我々はどこを目指すのか。
事業をやるのは我々なのだから。
一緒の船に乗るスタッフと、一緒に考え、気持ちを同じくしなければ、何も始まらない。
赴任して2ヶ月後、新しいスローガンを掲げることにした。
20名程のメンバーと議論を重ねてミッションステートメントを作り、見つけ出した言葉。
“Access Your Dreams”
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
We are here to help you access your dreams.
「たかが、一現地法人の一事業部でスローガン、ミッションステートメント?」 東京からはいろいろと言われたけれど、自分たちにはこれが必要だった。
“Access Your Dreams”
その日から、我々チームの快進撃が始まった。
3グローバル化の千本ノック
シンガポール駐在は、結局5年9ヶ月に及び、とても密度の濃い時間を過ごした。
シンガポールを拠点に訪問した国は、香港、台湾、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、フィリピン、カンボジア、ミャンマー、バングラデシュ、ネパール、パキスタン、インド、スリランカ、ドバイ首長国連邦、イラン、クウェート、サウジアラビア、オマーン、バハレーン、カタール、イエメン、シリア、レバノン、トルコ、ギリシャ、イスラエル、パレスチナ、エジプト、モロッコ、南アフリカなど。
赴任当初は、年間150日近く出張していた。
どの国にも思い出が詰まっているが、その中でも上げるとしたら、インド、マレーシア、パキスタン、エジプト、トルコそして南アフリカ。
インド
ゼロからマーケットシェアナンバー3まで成長。自分がシンガポールを離れた後、三年連続ナンバー1を獲得。
最初の一年は年間13回出張。出張のたびに、どうしたら売れるようになるか熱く議論を重ねた。夜はインド料理レストランでお互いに夢を語り合う。半年ごとに“だるまチャレンジ”。期初にだるまの左目を入れて、半年後にターゲット達成の記念に右目を入れる。いつしか、インド人の訛りのある英語をほぼ完璧に聞き取ることが出来るようになっていた。
マレーシア
当初苦戦していたが、代理店の組織改革の結果、当時サービスマネージャーだったT氏を事業統括責任者に抜擢。その後、彼のリーダーシップで、急速に売上が拡大。
後に、タイも彼らの傘下となり事業が拡大した。T氏とはその後も長い長い関係が続いた。今でも、最も信頼する友人である。
パキスタン
シンガポールに赴任する遙か前、アジア事業を担当していた際、東京で初めて会食の場に加えてもらった相手が、パキスタンの代理店の社長Y氏ご夫妻だった。Y氏は当時既に70歳を超えていたと思う。息子くらいの年の自分に、如何に仕事をすべきか、如何にいい妻を見つけられるか(奥様の前で)熱く説いてくれた。
私がシンガポールに赴任した時にはY氏は既に亡くなっており、私と同い年のY氏の長男が事業を引き継いでいた。
初めてカラチを訪問した際、Y氏のお墓参りに行くことが出来た。
その夜、Y氏の長男の自宅に招かれ、遠い昔銀座で会食をご一緒したY氏の奥様も私を迎えてくれた。奥様はY氏の思い出を語りながら、いつしか声を詰まらせていた。
パキスタンの売上?ずっと、ナンバー1でした。
エジプト
エジプトは代理店の選定から始まり、候補4社の中から、財閥のEl-Arabyグループを選定。圧倒的マーケットシェアナンバー1だったゼロックスを三年後に打倒し、ナンバー1を獲得し、その後何年もナンバー1を維持し続けた。
カイロでグローバル販売代理店会議を開催した際に、国立公園「ギザの三大ピラミッド群」の前に巨大テントを設営し、パーティーを開いたこともあった。
El-Arabyグループの会長が国会議員(当時)だったこともあり、そのような壮大なイベントを実現できた。ピラミッド4500年の歴史で初だったらしい。
ピラミッド越しに夕日が沈む中、シンガポールから冷蔵庫ごとハンドキャリーしたマグロがネタの鮨をつまみながら、代理店の社長連中と更なる事業の拡大を誓い合った。
トルコ
「今まで訪問した中で、好きな街を3つあげるとしたらどこですか?」
3つの内、2つはいつも同じ。イスタンブールとケープタウン。
イスタンブールは言わずと知れた東ローマ帝国時代の首都、コンスタンティノープル。
歴史ある街。ボスポラス海峡を眺める風景は格物。地中海性気候の土地柄か、初夏から夏にかけては街なかでたたずんでいるだけで清々しい。
トルコの代理店は、東芝が電卓事業をやっていた頃からの代理店。ユダヤ系の社長P氏にも多くのことを教わった。
シンガポールに赴任した直後に、大学を出たばかりのP氏の長男を研修生として自分のチームで受け入れていた。「お前の下で、教育してくれ」との依頼だった。「代理店の息子を内部に入れてどうするんだ、情報が筒抜けだろう。」そうした声もあったが、情報なんてすぐに劣化するし、P氏の願いを受け入れて自分の下で息子を直接半年間指導することにしたのだった。
しばらくして、彼ががんを患ったことを知った。
P氏が入院していた時に、私はイスタンブールに出張した。
彼は病院に特別に許可をもらい、オフィスで私を迎えてくれた。見違えるように痩せて、それでもスーツにネクタイを締めて、満面の笑みで私を迎えてくれた。
その夜、ボスポラス海峡を望むイスタンブール一のレストランで夕食も共にしてくれた。P氏は、料理には一切手をつかなかったけれど。
1ヶ月後、彼は帰らぬ人となってしまった。二人きりの時に、私に遺言を残して。
4黄金律 - 人種・宗教・国籍・言語を越えて
南アフリカ。
シンガポール駐在時代に、最も心血を注いで、且つ、事業が格段に伸びた市場。
アフリカの国の数は56。GDPの順位は一位ナイジェリア、二位エジプト、三位南アフリカ。その南アフリカ共和国は1994年にアパルトヘイト政策が終わり各国の制裁が解除されたばかり。当時まだまだ多くの課題が残されていたが、急速な経済成長が期待されていた。
1998年5月。初めてヨハネスブルグに出張した。生まれて初めてのアフリカ大陸上陸。今でも、最も苦い経験として、まるで昨日の出来事のように思い出される。
当時、私はビジネスを甘く見ていた。
東芝は一国一代理店制を基本的な代理店政策としていた。現地法人化するほど市場規模が大きくない市場は、代理店経由での事業展開とする。但し、複数の代理店を認定した場合、売上増大効果はあるが代理店同士の競争による価格低下やサービスの劣化、ひいてはブランドにもネガティブな影響が出るとして、基本的には一つの国に複数の代理店を認定することはなかった。
その唯一の例外が南アフリカだった。
その時の南アフリカ出張には、本社側の私の上司である海外営業部長N氏も同行。最大の課題、複数代理店制を解消することが目的で、私からN氏お願いして出張に同行してもらい、代理店2社を実際見てもらい、そのどちらかを独占代理店として選定するという計画だった。
南アフリカの代理店はともに、その複数代理店制を事業拡大の最大の課題として認識しており、我々が出張した際には必ず、「どちらかを選んで欲しい」と強く要求してきていたし、そのために両社とも我々を説得すべく周到に準備していた。
そのうち1社のCT社のK社長は、「東芝の皆様をお迎えするために、オフィスの壁もすべて塗り変えました」と笑っていた。
しかしながら、東京が下した結論は「現状維持」。
1社を選択した場合の売上減のリスクと、やり方を間違えると選択しなかった方から訴訟を起こされる可能性さえある。「今は動くな。現状のままで売上は拡大せよ。」
本社からの指示に多少の憤りを覚えながらも、その判断も一理あると思った私は「わかりました」と答えた。
三ヶ月後、再び、ヨハネスブルグを訪問した。
今回は、東京からの同行は無し。シンガポールから営業スタッフのCと二人での出張。夜行便でヨハネスブルグに着いて、ホテルにチェックインもせずにそのままCT社を訪問。
我々は、何事もなかったように、今期の販売目標と購入ターゲットの議論を始めようとした。
その時、CT社のK氏は、静かに、でも力強く私に言った。
「三ヶ月前、貴方は、2社から1社選ぶと言ってヨハネスブルグに来たのに、結局何も変わらなかった。」
「東芝が何も決めないのだったら、何も話すことはありません」
12時間の夜行フライトで訪問したミーティングは、わずか10分で終わった。自分史上、最短のミーティングとなった。なすすべもなく。
何とか、翌日に再度話をする約束を取り付けてオフィスを後にした。
「いいですよ。但し、東芝が二代理店制をやめない限りは、私たちが販売目標を約束することはできないということは変わりませんが。」
午後、もうひとつの代理店A社と打ち合わせ。直接的な言い方はされなかったが、同じような理由で、大きな成果を得られる内容では無かった。
翌日、ヨハネスブルグ事務所で一日中、あーだこーだと議論をした。どうやったら、売上を最大に出来るのか。結局、二代理店制を変えないことには、何も前には進まない。私たちはそう思うようになっていった。
だが、「南アフリカの二代理店制は変えない」という東京の判断を、時差がある南アフリカからわずか一日で覆すのはほぼ不可能。
完全にデッドロックに乗り上げたと思った時、営業スタッフのCがつぶやいた。「CT社に一番競争力のあるモデルを独占で売らせることは出来ませんか?」Cは続けた。「多分、彼らの方が売れると思う。」
その日の午後、K氏を東芝ヨハネスブルグ事務所に呼び出した。
「二代理店制は変えられない。なぜなら、どちらがより大きな結果を出すか、我々には確信が持てないから。」
「但し、我々が最も売れると思っている商品の独占販売権を貴社に与えます。その条件で我々の目指す販売目標金額を受け入れる気はありますか?」
代理店の任命と解約は東京の専権事項。たかが一現地法人の事業部長にその権限はない。
但し、モデルエクスクルーシビティについての規定はない。大きな施策の決定なので、本社に報告はしなければいけないことにはなっているが。もちろん、報告しました。事後に。
東芝シンガポール社の複写機部門は、毎年4月に「KICK OFF MEETING」と称して、傘下の全代理店を集めてのグローバル代理店会議を開催していた。その年度の重要な施策の発表や新製品の紹介を主目的としていたが、同時に、一年間頑張ってくれた代理店への感謝の想いを表す場でもあった。
優秀な成績を上げた代理店にアワードを進呈。更に、代理店の事業責任者に個人賞として、”Best Marketer Award” を贈呈、副賞としてオメガのダイバーウオッチを進呈。文字盤の裏には、TOSHIBAのロゴと、”Best Marketer of the year”の刻印が施されていた。
1999年。私がシンガポールに赴任して二度目の代理店会議。場所はクアラルンプール。
アワードセレモニーの最後に、”Best Marketer of the year”として私が読み上げた名前は、南アフリカの代理店の1社、CT社のK氏。
ステージ上で、私が差し出した右手を、彼は力強く握りしめてきた。
その後、何度も南アフリカを訪問し彼と会ったが、彼の左腕には必ずその時計がはめられていた。
時が過ぎ、2010年7月11日。ヨハネスブルグのサッカー・シティ・スタジアム。その日は、アフリカ初のFIFAワールドカップ南アフリカ大会の決勝戦、スペイン対オランダ戦。
私がシンガポールを離れて7年が過ぎていた。
そのスタジアムに、K氏と私は共に座っていた。
最後に、『黄金律』について。
黄金律(英:Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見いだされる「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ。」という内容の倫理学的言明である。
また、黄金律の派生として、
「白銀律」 「自分がされたくないことを人にしてはいけない」
「白金律」 「人があなたからしてもらいたいと思っていることを人にしなさい」
(※ウィキペディア(Wikipedia)から引用。)
キリスト教でも、イスラム教でも、ユダヤ教でも、ヒンドゥー教にも、同じような教えがあるようです。そして、私がその後13年間を過ごすことになる中国で、広く浸透している孔子の論語にも。
シンガポールの約6年間の駐在期間中に、出会った人は数限りない。ビジネスを通じて、プライベートの交流を通じて、本当に多くのことを学んだ。今の自分のものの見方・考え方の骨格を作ってくれたと思う。
その中で、一番、大きなこと。それは、黄金律かもしれない。
人種も宗教も国籍も言語も、育った環境も全く違っても、黄金律さえ守っていれば、コミュニケーションは成立する。
5シンガポールから中国へ―新たな挑戦
2002年3月、本社主催のアジアプロダクトミーティングに出席するために、私は上海を訪れた。初めての上海だった。
夜、東京から来ていた事業部長達とともに、外滩(別称:The Bund)に行った。ライトアップされた西洋式建築が立ち並ぶ風景は圧巻。黄浦江の向こう側にそびえ立つ東方明珠塔。若い頃読んだ、司馬遼太郎の「世に棲む日日」の主人公高杉晋作が140年前に訪れ、目にした風景と同じ風景を自分が見ているのかと感慨深かった。
「来年、上海に赴任してくれないか?」事業部長U氏が私に言った。風が強い日だった。
「分かりました」殆ど間をおかずに、私は答えていた。
「力不足かもしれませんが、全力で頑張ります」
当時、42歳。
自分の人生にとっても、自分の会社人生においても、一番大事な時になるであろう時間を中国で過ごすと決めた瞬間だった。
『面白き事も無き世を面白くすみなすものは心なりけり』
高杉晋作の辞世の句が頭に浮かんだ。(※下の句は野村望東尼作)
実は、私は、シンガポール赴任前に中国ビジネスに深く関わっていた。
米国から帰国後、アジア地域の営業として中国事業を担当していた。当時は香港の代理店一社との取引。後に、台湾系の代理店を認定して、二社体制とした。広い中国をカバーするためには、敢えて二社で競わせるという目的で。その後しばらくの間は順調に売り上げが拡大していたが、一方で代理店傘下のディーラー間の摩擦が絶えない状況にもなっていた。混乱を避けるための次の一手で、代理店二社と東芝で香港にJV会社を設立。その設立にも深く関わった。
一方、東芝の複写機事業は96年に広東省深圳市に製造工場を設立していた。当初は輸出向けの製造工場であり、製造した商品を直接中国国内で販売することは認められていなかったが、1997年に「内販権」を獲得。当時、業界初だった。
「内販権」を獲得しても、売る仕組みが全くない。プロジェクトチームを設立し、私が実行部隊のリーダーとなって深圳工場に長期間張り付き、すべての業務フローの構築に取り組んだ。モノを実際に動かすためにやらなければならないことは無数にあった。ITシステム(ERP)の構築、会計的な処理、帳票関係の整備、契約書関係の整備、ロジスティクスの構築等々。
「内販権」を獲得し、モノを動かす仕組みも構築も完成。しかし、全くモノは動かなかった。なぜなら、一度香港に輸出し再輸入するやり方の方が、相変わらずコスト競争力があったのだ。所謂、香港「ブラックボックス」が機能していた。
その半年後、風向きが変わった。「ブラックボックス」経由の輸入が完全に止まったのだ。そしてまもなく、製造工場から中国国内のディーラーへの販売が爆発的に伸びることになった。
このプロジェクトの為に、深圳に結局2ヶ月くらい滞在したことが、初めての中国体験。今でこそ、「中国のシリコンバレー」ともてはやされている深圳だが、当時はその面影はまだなく、中国に住みたいとは正直全く思わなかった。
その後五年が過ぎ、中国は変貌を遂げつつあった。
そして、シンガポール駐在期間中に自分自身の価値観も大きく変わってきていた。
「中国なんか行きたくない」そう思っていた自分が、
「中国に行ってみたい」と思うようになっていた。
シンガポールから中国へ、新たな挑戦が始まろうとしていた。
6与えられた二つのミッション―上海での挑戦
上海には2004年4月から2015年7月までの11年3ヶ月の時間を過ごし、多くの人に出逢い、多くの友人を得、多くのことを学び、自分の人生でかけがえのない時間となった。
旗を掲げる
シンガポール時代に、みんなの気持ちを一つにするために掲げた『Access Your Dreams』を中国でも掲げることにした。
『成就你的梦想』。(Chéngjiù nǐ de mèngxiǎng)
このスローガンは、その後ずっと、スタッフやディーラーの幹部を、そして私自身を鼓舞し続けた。
もう一つ、ディーラーの社長たちを鼓舞するために使っているうちに、いつの間にかモットーのようになってしまった言葉がある。
『没有压力,没有意思。没有挑战,不是人生』
(Méiyǒu yālì, méiyǒu yìsi. Méiyǒu tiǎozhàn, bùshì rénshēng)
『No Pressure, No Fun. No Challenge, No Life』
ディーラーと購入ターゲットを決める場で、ディーラーの社長が、「压力太大」(プレッシャーが大き過ぎます)と文句を言うのに対して、「没有压力,没有意思」(プレッシャーがなかったら、面白くないでしょう)と言い返していたのが、いつの間にか、決まり文句のようになってしまっていた。
下の句の「没有挑战,不是人生」は、元々は私の言葉ではない。
2008年の北京オリンピックの際に、東芝が中国のシンクロナイズドスイミングチームをサポートしていたことがご縁で、当時中国チームの監督をしていた井村雅代さんと会食をする機会に恵まれた。
「どうして、中国チームの監督を引き受けたんですか?」当時、井村さんはメディアで批判されていた。それに対して、彼女が私に言ったのが、この言葉。
「チャレンジが無ければ、人生ではないでっしゃろ」
そして、生まれたのが、『没有压力,没有意思。没有挑战,不是人生』
与えられた二つのミッション
2004年4月に上海に赴任した時点で、東芝の複写機事業は、中国で四年連続ナンバー1を獲得していた。(台数ベース、A3機以上)
赴任の際に言われた任務は大きく二つ。
ひとつは、利益を出し続けながらマーケットシェアナンバー1をできるだけ維持すること。
もうひとつは、他社が既に始めていた直販を始めること。直販とは、ディーラーを通さず、メーカーが直接最終顧客に販売しサービスを提供する。当然、ディーラーとの間で顧客の取り合いという摩擦が生まれる可能性もあり、進めるには慎重を期す必要があった。
結論から言うと、私はその二つの任務を完遂することが出来た。中国の急激な経済発展という追い風と、スタッフ・ディーラーを始め、多くの人々の協力に支えられて。
マーケットシェアナンバー1は、私の在任中の11年間一度もその地位を譲ることが無かった。また、直販体制もゼロから構築し、上海を離れる頃には売上金額ベースで全体の10%、利益ベースで30%に至るまでに成長した。会社全体としてのROSは10%を超えていた。全国に6カ所あった倉庫の在庫は流通在庫も入れて、DSO30日以内、キャッシュフローも健全でDOS30日以内に継続して抑えるという質の高いオペレーションも構築した。
マーケットシェアナンバー1を維持するために私がしたこと
赴任した当初は、ディーラー網の整備拡充、新規ディーラーの開拓に邁進した。
中国は大きく七つの地区に分かれている。東北・華北・華東・華中・華南・西北・西南。
当時、ビジネスの殆どが北京から上海、いわゆる広東省の沿岸部地区に集中していた。まだまだ未開の地区に、ディーラーを認定し、カバレッジを拡げた。内モンゴル自治区・新疆ウイグル自治区・チベット自治区・寧夏回族自治区・广西チワン自治区・黒竜江省・青海省・甘肃省等々、こうした地区にもディーラーを増やしていった。
市場規模が大きな地区については、更に地区を細分化して、例えば江蘇省であれば、蘇州、無錫、南京、江阴から常州、泰州、镇江、徐州、扬州と、どんどんディーラーを増やしていった。
できるだけ多くのディーラーに直接会いに行くのをモットーに、ほぼ毎週のように出張を重ねて、1年9ヶ月で22省5自治区の省都(省会)を回りきり、11年余の駐在期間を終える頃には、200以上の都市を訪問していた。
現場に行き、ディーラーの経営者と会って、直接話を聞く。彼らの率直な声がどれほど役に立ったことか。商品の機能・品質・コストへの批判的なコメント、オペレーションに対しても容赦無く、他社に比べて如何に劣っているか、辛辣な意見を浴びせかけられた。批判されるということは、宿題を与えられたということ。改善に向けたアクションを何もしなければ彼らは離れて行ってしまう。聞きっぱなしにせず、きめ細かいフォローを心がけた。
更に、現場に行くと、同行している中国人スタッフの能力やディーラーとの信頼関係も見えてくる。本当に現場には宝物が詰まっていた。
そして、夜は白酒を酌み交わす。アルコール度数53度の茅台酒(中国の国酒といわれる白酒)を一晩で46杯も飲んだこともあった。
心身ともにハードだったが、A4用紙何ページものレポートを読んでも見えてこないものを自分の目で見て感じることは、何物にも代えがたいことだった。
市場特有のニーズに応えた商品開発
ディーラー網の開拓と並んで、最も重要なことは中国市場のニーズに適合した商品の開発。
複合機「長江」シリーズは、日本の開発部長に電話して、「売る市場にちなんだ開発ペットネームにしてください。開発していただければ、売りますから。」と直接お願いし、「長江」(Chángjiāng)と命名された。
「長江」シリーズは三世代に亘り開発され、中国市場最大のヒットシリーズとなった。
その後、中国名を開発ペットネームに使うというのは業界での流行となり、競合がこぞって模倣した。
長江シリーズがどういう商品で、何が優れていたのかを書き記しても、意味は無い。
大事なことは、どの業界でも、どの市場でも、その市場でのニーズに応えること。
当時は、日本や欧米で販売している商品を、必要最低限の仕様変更だけして市場に投入することが少なくなかった。
後に、私が東芝の中国総代表になって、グループ事業全体を俯瞰して見る立場になった時、成功している(いた)事業は皆、市場の声に真摯に耳を傾けているという共通点があったように思う。
現地の駐在員は、如何に東京の本部の人たち、特に商品開発に携わる人たちに、その市場の生の声を届けて、市場のニーズに適合した競争力のある製品を開発してもらうか、に大きなエネルギーを注がねばならない。
7中国で学んだこと
中国人とのコミュニケーション
私が上海に赴任した時、オフィスでのコミュニケーションは、日本語を話すことができる限られた中国人スタッフに頼っている状況だった。まずは、より多くの人と直接コミュニケーションが取れるようにと、オフィスでの公用語を英語に変えた。
自分は当時全く中国語を話せなかったので、自分が中国語を話せないことを棚に上げて、中国人に英語でのコミュニケーションをある意味強要した。意外と知られていないが、中国人の若い人は英語をある程度話す。大学で英語を学び、下手な日本人よりは断然上手。
もちろん、日本語を理解する中国人スタッフも採用していた。特に、総務関係は日本人駐在員の面倒を見るのに、どうしても日本語を理解する現地人スタッフが必要だった。
一人、全く英語を話せない幹部がいた。上海地区の営業部長のJ。彼は英語を話せないので、クビにされるのではないかとビクビクしていたらしい。
そんな彼とは、よく一緒に出張し、多くの時間を過ごした。彼は、私が帰任するまで営業のトップであり続け、結果を出し続けてくれた。最も信頼するスタッフの一人だった。
「老板(Lǎobǎn)(ボスの意。当時、みんなは私のことをそう呼んだ。)の中国語が上達したのは私のお陰。私が英語を勉強することを拒絶したから。」 ディーラーとの会食などの際、時々冗談っぽく自慢していた。
実際、彼にはたくさんの中国語を教わった。特に、ここに書けないような表現が多かったが、中国語しか話さないディーラーとの会話の場で、あるタイミングで彼から教えられたその言葉を発すると、その場の空気が和んだり、時には大爆笑になったり。
あの頃、お世話になったディーラーの幹部たちとも、今もWeChatを通じて交流が続いている。何年か経って、久しぶりに会うことになっても、多分また以前と同じように白酒を酌み交わすことが出来る気がしている。
Jが言う通り、彼が英語を話せなかったから、自分が中国語を勉強してみんなとコミュニケーションできるようになったのかもしれないな、と時々思う。
「五岳归来不看岳,黄山归来不看岳」(Wǔyuè guīlái bu kàn yuè, huángshān guīlái bu kàn yuè)
(黄山を見ずして山を見たというなかれ。)
これは中国明代の旅行家「徐霞客」の詩句からの引用と言われているが、 この意味は「五岳」を見たら、他の山の風景を見る甲斐がない。 でも、「黄山」を見ると、「五岳」さえも見る必要がないと。つまり、「黄山」が中国で一番の山だという。五岳とは、中国で古来崇拝された五つの霊山。前漢時代、五行思想の影響により生じた泰山(東岳・山東省)・華山(西岳・陝西(せんせい)省)・衡山(南岳・湖南省)・恒山(北岳・山西省)・嵩山(すうざん)(中岳・河南省)をいう。
上海駐在時代に南岳を除く四つの山に登った。毎回、地元のディーラーと一緒に。麓から山頂までお互いに励まし合い、頂上まで登り切った時に見る風景はどれも格別であった。そうした活動を通じて販売代理店の幹部たちとの絆が深まっていったように思う。ビジネスは所詮、人。いつの間にか、ディーラーの社長だけでなく、家族ぐるみで付き合うようになっていった。
「黄山」は安徽省に位置し、一番標高が高い蓮花峰でさえ1864メートルなので、中国で一番高い山と言うことではない。高さでは無くその美しさで中国一番と言われている。
その黄山に、上海駐在中に二度登った。
一度目は、生憎の雨模様で何も見えなかった。
その数年後、再度挑戦。
私に中国語を学ぶきっかけを与えてくれた営業部長のJと地元のディーラーの幹部たち、上海からも数名の幹部が参加した。多くの時間を共有し、その頃には、Jをはじめ多くのスタッフとの間にも、「絆」が生まれていたと思う。
頂上で一泊。明け方、登りくる太陽に黄山は刻一刻と様々な表情を見せてくれた。
その美しい光景に心が震えたのを覚えている。
中国での社会貢献活動(CSR)
いかなる国においても、企業が事業を継続していく上で社会貢献活動(CSR)は社会的責務である。もちろん特別な活動としてのCSRの前に、企業として現地人スタッフを雇用して給料を支払い、企業として収益を上げて納税することが大事なのは言うまでもない。
私が上海に赴任する前から、東芝の複写機事業は東芝グループの中で最も早い段階から『希望小学校』という社会貢献事業を始めていた。
半期に一校か二校を選び、それなりの金額の寄付をし続けていた。食堂や子どもたちの寮の建設費だったり、パソコンの授業のためのIT機器だったり、もちろんコピー機も。
私が最初に訪れた学校は、河北省石家荘から車で8時間かけて行った山村の小さな学校だった。
村中の人たちが総出で道を埋め尽くし、学校の入り口には旗をかざし、生徒の鼓笛隊(のようなもの)が太鼓を叩いて我々を出迎えてくれた。
贈呈式では、生徒の代表の子たちが、私や同行している地元ディーラーの社長の首に赤いハンカチを巻いてくれる。そのあと、右手を頭の上にかざしての独特の敬礼スタイルで感謝の言葉を述べてくれた。
私も、下手くそな中国語で、子どもたちに語りかけた。
「日本の東芝という会社から来ました。」
「多分、みんなが大人になった時に、東芝という会社の名前は覚えていないと思うけれど、あの日、日本人が来て、みんなにカラフルな筆箱セットをプレゼントしたことは思い出してください。」
そして、大きな声で全員に呼びかけた。
「大家!好好学习,天天向上!」(Dàjiā, hǎohào xuéxí tiāntiān xiàngshàng)
(みなさん、一生懸命勉強して毎日進歩してください!)
最後は子供たち全員に筆箱セットを手渡しした。どの学校でも、子供たちはきちんと整列して行儀良く順番を待ってくれた。
もう一つ、私たちが携わっていた社会貢献活動。
四川省成都は、出張先で訪れた中でも好きな街のひとつ。成都はパンダのふるさととしても有名である。
ひょんなことから、成都パンダ繁育研究基地で双子のパンダの里親になった。
名前は、“東東” (Dōng dōng)、“芝芝”(Zhī zhī)。
成都出張の折、その双子パンダに会いに足を延ばすのが楽しみだった。
のちに双子のパンダのお話は、当時広告制作をお願いしていた”わたせせいぞう”さんのオリジナルイラスト広告として著名雑誌に掲載。メディアにも大きく取り上げられた。
中国事業 – その成功の鍵
「中国事業で成功する鍵はなんですか?」と、よく聞かれる。
優秀な人材の採用と活用、人材の現地化、市場のニーズを汲み取った商品企画と開発、本社と現地法人の権限と責任を整備した上での経営の現地化などなど。
まず、何よりも大切なのは、人の現地化、経営の現地化ということ。
現地化するためには、優秀な人材がいなければならない。但し、当たり前のことだが、最初から何でも出来る優秀な人などいない。信用して、信頼して、育てなければならない。その先に、信任して、任せる。信頼されているということがその人を勇気づけて、仕事のパフォーマンスを上げることに繋がる。中国人は信用できないという日本人がいる。その結果、日本人の駐在員にいまだに依存する会社が少なくなく、結果として日本から送られて続けてくる駐在員のためにポジションが確保され、優秀な現地人のキャリア向上の阻害要因、所謂ガラスの天井を作ってしまう。
現地化と国際化(日本人のグローバル化)という二律背反のようなチャレンジにどう向き合えばいいのだろうか。
現地の事業を理解できる人材の育成は必要。育成のためのポジションは必要。きちんと責任ある立場にしてチャレンジを与えなければ人は育たない。
一方、それによって、現地人の昇進の壁になってしまっては、今度は、現地人のモチベーションは上がらないし、当然、人も育たない。人が育たないから、仕事も任せられない。任せられる現地人が育たないから、日本人の駐在員を送る。その悪循環を繰り返すことになる。
優秀な中国人が日本企業には行きたくないという状況に陥ってしまう。実際、優秀な中国人は日本企業を敬遠しがちである。中国人は信頼できない。信頼できない中国人スタッフが育たない。のではなく、仕組みとして、そうなってしまっているのである。
当たり前だが、人口14億人もいる国で、優秀な人材がいないわけがない。優秀な人材に育つ可能性のある人を見いだし、採用し、信用して、信頼して、信任する。
現地人が重要なポジションを占め活躍している組織に、現地を理解し且つ(日本人だからと言う理由だけで無く、真に)有能な日本人が上手く噛み合うようになれば、現地化と日本人のグローバル化の両立がきっと可能になるはずと思う。
そして、自分の目で、耳で、心で学ぶということ。
結局、事業は人であり、現場を見なければ何も見えてこない。
人に会い、語りかけ、話を聞く。自分の目で見て、見えないものも感じて、考える。
最終的には、自分で判断する。そして、行動する。逡巡することなく。
リーダーが動けば、周りはその動きを必ず見ている。
志を、想いを、共にする仲間は必ず増えてくるはずである。
事業は自分一人では出来ない。スタッフがいて、パートナーがいて、お客様がいる。
みんなの気持ちがひとつになった時、結果は自ずとついて来るように思う。
2015年7月13日、11年間と3ヶ月を過ごした上海を後にするその日、上海虹橋空港に幹部のメンバーが見送りに来てくれた。
一人ひとりの顔を見つめながら、こみ上げてくるものをこらえて、私はゲートに入っていった。
8ふたたびの中国
それは、あまりにも突然だった。
もう、二度と中国に駐在することもないだろうと思っていた2017年3月、北京への赴任の話が突然やってきた。東芝の中国総代表、東芝中国社の会長兼社長としての北京への赴任。打診されてから赴任まで一ヶ月も無い、まさに寝耳に水の発令だった。
上海に駐在した11年3ヶ月の間、家族とともに生活したのは最初の4年間であり、残りの7年3ヶ月は単身赴任の生活をしていた。日本に帰国してからの1年9ヶ月は、安穏としていたが、その安穏さに慣れつつあった。日本の生活も悪くない。このまま定年までつつがなく勤め上げる人生なのかなと思い始めていた。正直、あのタフな中国単身赴任の生活に戻るということには大いにためらいがあった。
そんな自分の背中を押したのは、息子の一言。
「チャレンジを受けないのは父さんらしくない。もし、断ったら見損なう。」
私は、若い頃からの座右の銘を思い出した。
「しない後悔よりする後悔」
北京では、二年間という短い期間だったが、非常に密度の濃い時間を過ごすことが出来た。上海赴任中とは全く違うチャレンジだったが、それまでに無い経験をさせてもらったと思うし、何よりのちに起業するきっかけともなった、中国の優れたスタートアップとの出逢いがあった。
改善する日中関係
思い起こせば、前回上海に赴任した2004年当時、日中関係は最悪だった。
小泉首相の靖国神社参拝で中国との関係は悪化し、首脳会談は一方的に拒否されていた。中国国内では反日感情が高まり、2004年7月にサッカーのAFCアジアカップが重慶で開催された際、反日感情が剥き出しになり、日本チームは君が代演奏時や試合中に激しいブーイングや反日行為に晒された。
2005年には、上海中心部でも反日デモが行われ、暴徒により日本料理店などが壊され、日本領事館にはペンキ、卵、果物などが投げつけられた。実際私自身もそのデモにあわや巻き込まれそうになるという場面もあった。当時上海に帯同していた息子には、スクールバスが信号で止まった時、(日本人とわからないように)窓の外に顔を向けないように、と注意をし、駐在員の妻たちはタクシーで「日本人?」と聞かれたら「韓国人」と答えるなどの対応をせざるを得ない状況だった。
その後の民主党政権下での尖閣諸島問題などによって、両国の関係は最悪の状況へ転げ落ちていった。
時が経ち、私が再び中国に赴任した2017年当時、日中関係は想像できないほど改善していた。
2017年は日中国交正常化45周年、2018年は日中平和友好条約締結40周年を迎え、様々なイベントが行われた。
- 公式ロゴマークは、Japan-Chinaの頭文字「JとC」を組み合わせ,ハートを(心)を形作っている。日中交流の基本は「心と心の交流(ハート・トゥ・ハート)」であることを表している。
2017年、2018年の経済三団体(経団連、日中経済協会、日本商工会議所)の訪中団北京訪問の際の様々なイベントに、私は現地企業の代表の立場で参加した。
日中関係が良好な関係を維持できていなければ、安心した経済活動も出来るわけがない。様々な政府関係のイベントに参加する機会を得、日中間の関係改善のために弛まぬ努力を続けてこられた方々への深い尊敬の念を禁じ得なかった。
「日本と中国は、お互いに引っ越しできない隣国である。」当時の横井在中国日本国全権大使がいろいろな場で仰っていたお言葉である。
私の中での日本と中国への想い
日本と中国は、政治制度が違えども、引っ越しできない隣国として、言いたいことは言い合いながら、是々非々で、お互いに学び合い、尊敬し合い、Win-Winで経済成長の果実を享受し合える友好関係を築けないものか。
中国での生活が長くなればなるほど、私の中のそんな気持ちが大きく膨らんで行った。
飲水思源(Yǐnshuǐsīyuán)- 水を飲む者は、その源に思いを致せ。
1972年、田中角栄氏が日中国交正常化交渉のために北京を訪れた際の周恩来総理の言葉と言われている。
短くない時間を中国で過ごし、かけがえのない多くの友人を得た自分が、何らかの形で日中関係、その発展に微力ながら貢献できたらと、次第に思うようになっていった。
2018年10月26日、安倍首相が日本の総理として7年ぶりに中国を訪問したその日、日章旗が天安門広場の前にはためいていた。
北京は抜けるような青空だった。
9中国事業―その先へ
“Made in China”の変容
東芝は中国に数多くの現地法人を有している。
中国総代表として東芝グループの多岐に亘る事業を見る機会は、自分にとっても非常に新鮮な経験であり、多くのことを学んだ。
数多くの現地法人を訪問し、経営陣、ローカルスタッフ幹部の話を直接聞き、現場を見る。
経営というものの本質、海外で事業を行うということ、現地化とは、等々。当然、事業によってその成功の鍵は異なるはずだが、本質的なところは驚くほど似ていた。
東芝グループは、90年代から、多くの事業で現地生産を進めていた。日系企業の中でも最も早く現地生産を始めた企業の一つと言える。在任中、そのすべての工場を訪問した。
現地生産を始めた当初、中国のベンダーの品質に苦労しながらも東芝の期待する品質を維持するために、並大抵でない努力をし日々改善し続けてこられた先輩方に、尊敬の念を抱かざるを得なかった。
ある生産拠点は、その工場関係者以外の外国人が(日本人を含めて)一人もいないような地方都市に位置していた。上海駐在時代に200都市以上を訪問した自分でさえ、一度も訪れたことない街。当然、日本食を売っているようなスーパーなど存在しない。
ところが、工場の敷地に入ると、植木が綺麗に植えられ、ゴミ一つ落ちていない。まるで日本の工場そのもの。日本のマザー工場以上だと、現地駐在員が笑った。
製造現場も、5Sのスローガンのポスターが貼られ、現場の人たちは皆制服をきちんと着こなし、何より彼らのキリリとした顔が、その工場で働くことに誇りを抱いていることを感じさせてくれて嬉しく感じた。その工場で作られる製品は中国のインフラを支えていた。中国企業では追いつけない卓越した技術力で。
工場視察の最後に、幹部を前に“訓示”を述べる機会を頂いたが、出てくる言葉は感謝の言葉だけだった。
80年代から90年代、中国で現地生産を始めて、中国のベンダーが納める部品の品質に苦労をした日本企業は少なくないと思う。安かろう悪かろう。”Made in China 中国製”。そのレッテルを剥がすために共に戦ってきたのは、何を隠そう先んじて中国に乗り込み現地製造を立ち上げた日本人のサムライたち、製造の現地化を推進した人たちである。
先人たちの努力のお陰で、それから何十年も経った今、中国のベンダーの技術レベル、品質レベルは驚くほど向上して来ている。
今、中国では、日本の自動車メーカーはもちろんのこと、EVで世界をリードしているテスラも上海に巨大な工場を建て、EV車をガンガン製造している。Appleも多くの機種を中国でいまだに製造している。
米中摩擦と言われているが、その状況は変わらない。多分、今後も変わらないだろう。
第三国市場協力
2018年10月25日、安倍総理が北京を訪問した。日本の総理大臣として約7年ぶりの訪中となった。同時に「第三国市場協力フォーラム」が開催され,52件の日中間での協力覚書が取り交わされた。私は、東芝の中国総代表として、その内の一つの案件の締結に関わった。
とある電力系の国営企業は、一帯一路政策が発表される遙か以前より、東南アジア諸国、アフリカ諸国で事業を展開していた。
その海外事業の責任者は、アフリカに15年以上駐在していたと言っていた。
中国の国営企業は、その土地に張り付き事業を展開する。何かと批判を浴びている一帯一路政策であるが、現場の人たちの覚悟と努力は並大抵のものではない。家族を中国に残し、半年に一度、長期休暇で中国に戻るだけの生活を何年も続けている。手当は十分に出されるようで頑張れば処遇もされるそうだが、それだけで耐えられるような苦労ではないだろう。
協力覚書の交渉の過程で垣間見た、中国国営企業のグローバル化の進展具合は驚異的だった。
インドでも、オーストラリアでも、中国でも、日本の経済発展に活用できることは、活用したらいいと思う。それが、お互いにとって、Win-Winであるのなら。
スタートアップとの出逢い
同時期、私は、いろいろな政府関係の活動にも参画する機会を得た。
中国政府商務部や発展改革委員会などの会合も、今までに無い経験で非常に勉強になった。
そうした活動の中でも、中国の有望スタートアップの視察は、非常に印象深い経験だった。
一例を挙げると、中国最大級の顔認証スタートアップのMegvii社(正式名称:北京旷视科技有限公司 2011年設立)。
中国では超有名でも日本ではそれほど知られていないと思うので、多少ご紹介する。
Megvii社とそのライバルであるSenseTime、Yitu、CloudWalkは、中国の「四大AIドラゴン」と総称されていて、Megvii社の技術は、中国全土のスマートシティのインフラや、多くのスマートフォンやモバイルアプリの動力源となっている。創業以来10年の間にAlibaba(アリババ)、Ant Group、中国銀行などの投資家が、約14億ドル(約1451億円)を出資している。中国に100社以上存在すると言われるユニコーン企業の一社。
オフィスを訪問し、プレゼンを聞きながら、いろいろなことを考えた。
創業者兼CEO印奇は、清華大学の有名な姚期研究室を卒業。米国コロンビア大学博士課程中退。中国に帰国後、Megvii社を起業した。
中国の優秀な大学を卒業後、米国に留学し、帰国。著名な投資会社から資金を調達して起業する。中国にはこうしたスタートアップが次から次へと生まれてきていた。
GDP世界第二位、人口14億を有する巨大な市場は、スタートアップの最善の孵化装置として機能していた。なぜ、中国で次々のイノベーションが生まれるのか、その理由の一つが巨大な市場の存在と言える。加えて、AI系を筆頭に、第四次産業革命を推進するのに必要な優秀な技術者も、日本とは比べものにならないくらい多い。
資金調達も、政府系ファンドや米国系ファンドが乱立し、優秀な創業者にこぞって投資をしている。当然、シードレベルで、いつの間にかいなくなってしまうスタートアップも数限りないが、大化けするスタートアップも存在する。起業して失敗しても、また挑戦を繰り返す起業家も少なくない。それが受け入れられているのである。
中国には、日本にないスタートアップ育成のエコシステムが存在していることを目の当たりにした。
「グローバル化」で目指すべき市場の変化―30年前そして、今
東芝に入社し第三国際事業部通信機器部に配属されたのは、1985年。
1985年は、まさに東芝が世界初のラップトップPCを欧州で販売開始したその年である。新しい事業の立ち上げに、事業部全体が高揚していたように記憶している。
そのラップトップPCの事業化に向けて邁進していたのが、H部長。H部長は、私の高校の先輩ということもあり、国際事業部に配属された頃から、違う部署にも関わらず、何かと目をかけてくれていた。
H部長からは、ラップトップコンピューターのモックアップサンプルを作り、米国のディーラーを訪問し、こうしたコンセプトのPCを作ったら取り扱っていただけますか?と聞いて回った、との話を何度か聞かされたことがある。その武勇伝に興奮した。
1980年から90年代、グローバル化と言えば、欧米。市場規模が最大の欧米で戦い、結果を出さなければ事業として勝ち残ることは出来ない、とこぞって欧米を目指していた。
約30年の時が経ち、2019年にはテスラ社が上海に最大生産規模50万台の工場を建設し、2020年には年間14万台以上を中国で販売し、同社世界販売の28%を占めている。EV販売の50%以上は既に中国市場なのである。
他の多くの領域でも、中国市場がその最大規模の立場を欧米から奪ってしまっている。
人口14億を有しGDP世界第二位にまで発展した中国は、まさにグローバル化を目指す企業が攻めなければならない市場そのものになっている。
オープンイノベーションー日本と中国の懸け橋に
周知のとおり、GAFAは自前で技術、商品を開発し続けている上で、更なるイノベーション実現のために、『オープンイノベーション』を当たり前のように一つの手段として取り入れている。
昔のように、自前主義でゼロから技術を開発して、市場を開拓して、などしていては間に合わない。自分たちでゼロからすべてを創り上げることに拘ってはいけない。
地球上の最大のグローバル市場と化した中国市場を、中国の有望スタートアップと手を組み、一緒に攻める。日本においても中国の有望スタートアップとの連携を新規事業開拓の起爆剤とする。そして、可能であれば、共に手を携え、他の市場へのグローバル展開を目指す。
これこそが、日本企業の生きる道ではないか。私の前に、一筋の道が浮かび上がって来た。
中国で、様々なスタートアップを訪問しながら、考えた。
これだけ、有望なスタートアップが中国にありながら、なぜこれほどまでに日本企業との連携がなされていないのか。
現地生産の現場で苦労してきた日本企業の駐在員は、皆知っている。急速に進歩してきた中国人の技術力を。また、苦労を共にし、現場で奮闘する中国人の勤勉さに驚き、親しみを抱く日本人も少なくない。当然である。いわば、彼らは志と苦労を共にした同志なのだから。
何かが不足している。
大きな可能性を感じた瞬間だった。
その欠けているピースを埋めることができないか。
自分がやらなくても、いつか、誰かがやるかもしれない。
だったら今、自分がやろう。
「没有压力,没有意思。 没有挑战,不是人生。」
(プレッシャーがなければ、楽しくない。チャレンジがなければ、人生ではない。)
自分の言葉に背中を押されて、私は新たな一歩を踏み出した。