日中と朝晩の寒暖差が激しい日が続いている。半袖で気持ちよく走れる日もあれば、片付けてしまったウィンドブレーカーをまた引っ張り出して羽織って走ることもある。新緑はいつの間にか濃い緑に変わりつつあり、緑陰の季節に向かっている。
我が巨人軍は5月11日の試合でついに首位に浮上した。今シーズンは投手陣が好調なものの、打線が湿りがちで得点が取りにくい試合が続いていたが、昨晩は岡本選手が2打席連続ホームランを放ち、チームは4連勝を飾った。まだ5月初めであり今後の展開は不透明だが、この浮上は嬉しい限りだ。私が応援しているもう一チーム、パリーグの西武は最下位に低迷している。先日観戦したソフトバンク戦では、西武から移籍した山川選手にタイムリーヒットを打たれてしまい、その場面が忘れられない。
最近、ボクシングジムに通い始めた。
コロナ禍前は毎朝のジョギングに加えて、週2、3回近所のフィットネスクラブで筋トレや有酸素運動を行っていたのだが、コロナ禍をきっかけに退会してしまった。そのせいか、コロナ禍を経て体重が10キロも増加し、いくらジョギングに励んでも体重がなかなか減らないことに悩んでいた。そんな折、当ホームページの「社長対談」にも登壇いただいた富坂聡氏から、「ボクシングはいいですよ。」と勧められた。
富坂氏の言葉で「そうか、ボクシングがあったな。」と思い出した。実は北京駐在時代に1年ほどボクシングエクササイズをやっていたのだが、それが心地よい疲労感だったことを思い出した。また、古い話だが、高校入学時、中学までやっていた野球を怪我で諦め新たに始められるスポーツを探していた際、ボクシング部とラグビー部で迷い、最終的にラグビー部を選んだ経緯がある。ほとんどボクシング部に決めようとしていた時、ボクシング部に所属していた中学時代の野球部の先輩から「お前は顔が大きすぎて、相手のパンチが当たりやすいからやめておいた方がいい。」と忠告され、「確かに」と思い、ラグビー部を選んだ過去がある。しかし、その後ラグビーの試合で、モールの最中によく殴られたことから、ラグビーにおいても顔が大きいというのは有利ではないことを知った。
ふとした折に、自宅から自転車で10分ほどのところに元世界チャンピオンのボクシングジムがあることを知り、通うことにした。
ジムは結構広くゆったりとしたスペースがあり、いつも多くの人で賑わっている。女性や子供たち、私より年上の方も多い。来ている人たちは非常にフレンドリーで、お互いに「こんにちは」、「お疲れさまです」と挨拶を交わし、礼儀正しくアットホームな雰囲気が心地よい。トレーナーは複数名が常駐しており、私のような新参者にも名前で呼びかけて、時折アドバイスをくれる。毎土曜日は元チャンピオンがいらっしゃり、時に、突然背後から「もっと足を動かして」と声を掛けられたり、腰に手を当てて「腰は固定して、上半身をもっと動かして」と指導されたり、パンチングボールを叩いたら「手を引きすぎ、それじゃ間に合わない」といったアドバイスをくれる。我々の世代だと憧れのスーパースターの元チャンピオンに指導されるのは素直に嬉しい。ジムの壁には大きなデジタル時計が掲げられており、3分毎に刻まれて、30秒休憩、そしてまた3分と刻まれる。最初に縄跳び3,000回でカラダを温めてから、シャドーボクシング5ラウンド、サンドバッグ打ち5ラウンド、トレーナーとのミット打ち1ラウンド、パンチングボール打ち1~2ラウンドをこなす。パンチングボールは未だに連続では出来ないが、それでも少しずつ当たるようになってきた。最後にダンベルと背筋、ストレッチで終了。大体、1時間半くらい。途中で1度シャツを着替えるくらい大量の汗をかく。
減量の目標は夏までに最低6キロ。目標が達成できたら、ボクシングシューズを買おうと思っている。
5月12日、今日は母の日である。ジョギング中に聞いていたラジオでは、「母の味」に関するエピソードを募集する特集が組まれていた。
「母の味」と言われて、何を思い出すのかと自問すると、まず浮かぶのは「黄色いカレー」である。これは、業務用のルーを使用したジャガイモ、にんじん、タマネギ、豚肉の一般的なカレーであるが、未だにその色が黄色い理由は分からない。母は東京で一人暮らしをする息子(大学生の私)がこの「黄色いカレー」が大好きなことを知っており、毎月、必要な材料を段ボール箱に詰めて送ってくれた。母の送ってくれたルーや野菜を使って自分でカレーを作るものの、なぜか黄色くはならなかったし、結婚後、妻がトライしても同じ色にならなかった。そのわけは未だに謎のままである。
両親が共稼ぎだったので、家では祖母が料理をすることも少なくなかった。小学校の頃、学校から帰るなり「ただいま、腹減った!」と言う私に、おばあちゃんが作ってくれる「味噌おにぎり」が大好きだった。母の味ならぬ「祖母の味」だが、あの味が忘れられない。
妻の母は料理がとても得意で、自分の食は細いのに、作ったものを人に食べてもらうのが大好きな人だった。妻の実家に行ったときはいつもご馳走で迎えてくれ、きんきの煮付け、豚の角煮、黒豚のとんかつなど、それぞれでメインになるようなおかずが三つも四つもテーブル狭しと並んでいた。
ご馳走になる以外にも、妻の母には結婚前からとてもお世話になった。その時代はまだ携帯電話が普及しておらず、昭和の風情が色濃く残る中、私はいつも残業、残業でデートの待ち合わせ時間に遅れがちだった。よく待ち合わせ場所として選んだのは横浜駅のダイヤモンド地下街の書店「有隣堂」である。この場所を選んだのは、もし遅れても本屋なら時間を潰せると考えたからだ。しかし、私の残業は本屋の営業時間が終わっても片付かないことが多く、しびれを切らした彼女は自宅の母に電話をして、「もし連絡があったらもう待てないから帰ると伝えて。」と母に伝言を頼むのだ。そんな時、いつも義母が「そんなこと言わないでもう少し待ってあげなさい。」ととりなしてくれ、彼女との関係を支えてくれたのだった。
二人とも他界し、今はもうこの世にはいない。長い海外駐在のため、私は二人の最期に立ち会うことができなかった。
「母の日」の今日、久しぶりに二人の母を思い出している。
5月12日