社長エッセイ

社長の日曜日 vol.6 私のゴールデンウイーク 2023.05.08 社長エッセイ by 須毛原勲

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 この時期、公園は若葉の瑞々しい香りに包まれている。

 朝のジョギングは、本当に心地良い。木々の若葉が朝日に照らされ輝きを放ち、生命力に溢れている。季節が進むにつれ、さまざまな花が待ちきれないように次々と咲き誇る。近所の公園には、ニッコウキスゲに似たムサシノキスゲの山吹色の花がひっそりと咲いている。奥の人目につかない場所にも、アメリカシャクナゲの可憐な花が咲き乱れている。エゴノキの白い花も、枝から吊り下がるように咲き誇っている。五月晴れの朝のジョギングコースでは、長い連休のせいか、いつもの時間にすれ違うランナーたちとも出会わない。4年ぶりの制約のないゴールデンウィークで、多くの人々が移動しているのだろう。彼らはどこかへ旅行に出かけたのかもしれない、そんなことを考えながら走る。

 この時間は、私にとって非常に大切なひとときだ。Radicoというアプリでラジオ放送を聞きながら走り始める。朝のラジオ番組ではその日の、正確には昨晩から今朝にかけての主要なニュースをアップデートする。それから、日経新聞が提供するLissNというアプリで、最新のビジネスニュースを英語で聴く。その後は、お気に入りの音楽を聴いて気分を高める。これが、私の日課。

 LissNというアプリは、秀逸なものだ。月額600円の有料サービスだが、情報の収集と英語力の維持にはぴったりのツールである。平日は5本のニュース、週末や休日は3本のニュースが発信される。日経新聞自体で記事として掲載されていないような情報が発信されることもあるようで、LissNを聴いて初めて知るようなニュースもある。また、最近の時事問題に関連する新しい英語表現やフレーズをLissNで覚えることも少なくない。英語学習に興味のある方には、是非おすすめしたいアプリである。

 連休の間、私はどこにも出かけず、読めずにいた本を読み進め、観たかった映画や海外ドラマをNetflixやAmazonプライムで楽しんだ。本は、基本的にはエンターテインメント系の本ばかりだったが、ひとつだけ紹介しておきたい。

 それはバーチャル美少女ねむ著「メタバース進化論」。すでに多くの書評で取り上げられており、読んだ方も少なくないと思う。Facebookが社名を「Meta」に変更したのは2021年11月4日だった。当時、メタバースに関する報道が過熱しており、私もある程度VRについて理解していたつもりだったが、この本を通じて、それが全く表層的であったことに気付かされた。私のメタバースへの理解は「5Gとはスマホが速くなるもの」という程度の理解しか持っていなかったかのようだ。読みやすく、理解しやすく解説されている本なので、非常におすすめ。

 そんな連休中、シンガポール駐在時代の元部下と会食をした。実に20年ぶりの再会。彼女からWhatsAppで連絡が来たのは、昨年の11月。大学時代の友人たちと日本へ来ることになり、東京でフリーな時間ができるため会えないだろうかというお誘いだった。

 1998年から2003年までの6年間、私はシンガポールに駐在していた。シンガポールを拠点にしていたものの、担当地域は東南アジア、インドや西南アジアを含む地域、中東、アフリカ諸国まで30数カ国に及んでいた。1年間のうち、120日以上は出張する生活だった。(その当時の話は、『創業者が語るストーリー』にも書かれていますので、興味があれば是非お読みください。)

 私は中国での駐在期間が13年と長かったため、得てして中国専門と見られがちだが、実は東南アジアのビジネスにも同じくらいの時間携わっていた。最初にアジアへ出張したのは1988年で、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイを訪れた。シンガポールへ駐在したのはその10年後、1998年から2003年までの6年間だが、実際には、駐在前や2004年以降の上海赴任時も含め、東南アジアのビジネスに関わり続けていた。

 彼女がシングリッシュを話し始めた瞬間、20年前のあの空間へタイムスリップしたような感覚に襲われた。あの頃の空気や匂いも蘇り、わいわいガヤガヤと働いていたオフィスの風景まで鮮明に脳裏に浮かんだ。シンガポール駐在は、海外での働き方や考え方、チームメンバーとの関係の築き方、リーダーとしての在り方など、多くのことを学んだ場だった。いわばビジネスマンとしての自分の骨格を作り上げてくれたのが、シンガポール駐在時代だったと思う。

 1999年、私がシンガポールに赴任してから1年が経った頃、彼女はチームの一員として加わった。その後の5年間、彼女はビジネスプランニング(事業企画室のような部署)の責任者として、私の右腕となりサポートしてくれた。NUS(シンガポール大学)出身の彼女は、言われたことだけをこなすタイプではなく、自分の意見や主張をしっかりと言ってくるタイプだった(そもそも、シンガポール人にはそういった気質の人が少なくない)。最初の頃は、互いの意見が衝突することも少なくなかった。彼女が納得することもあったし、私が説得されることもあった。最後には、「誰の意見」といったことをお互いに全く気にしない関係になっていた。正しいと思ったことをやる。彼女は、一旦目的が合意されればいかなるチャレンジにも情熱を持って最後まで取り組んでくれた。一緒に仕事をした5年間で、彼女は数々の新しいチャレンジに取り組み、事業の発展に大いに貢献してくれた。2002年秋、南アフリカの代理店買収交渉の最後の打ち合わせのために一緒にヨハネスブルクに出張した。紫色のジャカランダの花が咲き誇っているのを彼女と眺めたことを今も鮮明に覚えている。

 2003年、私がシンガポールを去る際、チャンギ空港に見送りに来てくれたスタッフの中で、彼女は一枚のカードを手渡してくれた。カードには5年間のさまざまな出来事についての思い出がびっしりと綴られていた。最後の一文は今でも忘れられない。

「You were always challenging and made me try new things. I looked forward to your new challenges right after that. Working with you was always an addiction for me.」

シンガポールでの6年間は、私の人生においても”かけがえのない最高の思い出”として、これからも大切にしたいと思っている。

 その後、彼女は会社を辞め、ご主人の事業を手伝いながら大きな成功を収めてきた。二人の息子たちも成長し、これから新しい人生のステージに踏み出そうとしている。まだ具体的に何を始めるかは決まっていないが、「私が生きている限り、周りの人々にポジティブな影響を与えたい。そういったことをしていきたい」と熱く語っていた。

 彼女は続けた。”The best is yet to come.”

 彼女の人生の第二章が始まろうとしている。

5月7日記

by 須毛原勲

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