株式会社AI予防医学研究所 代表取締役社長 酒谷 薫先生にお話を伺う第2回。
今回は事業に繋がるきっかけとなったグローバルな経験、脳外科医でありながら工学博士の学位を取得した経緯についてお話を伺います。

酒谷 薫先生プロフィール
【学位・資格】
医学博士・工学博士・脳神経外科専門医/
AICOG(※)開発者
【現職】
東京大学大学院新領域創成科学研究科 特任研究員/医療法人社団醫光会 理事長/(一社)脳とこころの健康科学研究所 理事長
【主な経歴】
米NewYork大学 医学部脳神経外科研究所(助教授)/米Yale大学 医学部神経内科(客員助教授)/中国・北京中日友好医院 脳神経外科 国際協力事業団長期派遣専門家/日本大学医学部 脳神経外科(教授)・工学部(教授)/ベルガモ大学(イタリア) 人間社会科学部、客員教授/東京大学大学院 新領域創成科学研究科(特任教授)
(※)【AICOG(アイコグ)とは】
株式会社AI予防医学研究所が開発した「認知機能健康管理AIサポートシステム」。
健康診断で得られる一般血液検査データを、AI(深層学習)で解析し、認知症や認知機能低下のリスクを推定する技術。
最大の特徴は、MRIやPET、特殊なバイオマーカー検査を必要とせず、通常の健診データだけでリスクを評価できる点。企業の健康診断や自治体健診のデータを活用することで、低コストかつ大規模な認知症リスク評価を、短時間で実現できる。

- Vol.1「医学と工学の融合、新たな予防医学の世界へ」
- Vol.2「グローバルな経験と医学・工学の融合」
- Vol.3「幸せを目標に〜人生を豊かにする予防医学へ」
中国での経験と中医学がもたらした新たな視点
ー 須毛原
医療って広い世界ですよね。その中で(Vol.1でお伺いした)「ベン・ケーシー」以外にこの領域に興味を持たれた理由などはありますか。
ー 酒谷
そうですね。今、予防のことをやってますでしょう。これはやはり、中国に行ったことが大きいです。僕は1995年から2001年まで、北京の中日友好医院にJICA(国際協力機構)の専門家で行っていました。その時は脳外科と脳科学の技術指導で行くということで、僕は全然漢方というか中医学には興味なかったんです。で、たまたま知り合った中医学の先生と話をしていると、僕がイメージしている東洋医学と漢方って全然違うんです。
日本の漢方というのは、中国から江戸時代に渡ってきたんですけれども、非常にシンプルになったんですね。体質とか、お腹を触ったりしてお薬を決めて治療するというメカニズムは、あまり関係なかったんです。日本の漢方は、とにかく「どの薬が効くか」を重視する方向に整理されてきたんですよね。僕が非常に面白いと思ったのは、中医の人が説明してくれた、人体、五臓六腑で人間機能を捉える考え方、その考え方がニューヨーク大学でも研究していた複雑系の考えにすごく似ているんです。いわゆるカオス理論とかフラクタル理論って、一時流行りましたよね。2、30年前に流行したファジーとか、その考え方とすごく似ているんです。
ー 須毛原
面白いですね。世界の最先端のニューヨークとその当時の中国に共通点があったなんて。その頃の中国って私も出張で何度か行ったことがありますけれど、まだまだ、でした。
ー 酒谷
いやもう、全然ですよ。だから僕が中国行くって言った時に、大学の先輩に「お前、ベクトルの方向逆じゃない?」って言われたりしました。
ー 須毛原
私も最初に中国に行ったのが91年ですけれど、90年代はまだまだ結構厳しい世界でしたね。
ー 酒谷
当時の北京市内の交通手段って自転車でしたからね。車なんてめったにない。
ー 須毛原
そういう世界ですよね。日本から行くのもちょっとハードルが高いと思いますが、ニューヨークから行くっていうのはもう全く違う世界ですし。言葉が乱暴かもしれないですが、なんだか都落ち的な……。
ー 酒谷
そういうふうに思われるんですよ。ただ、僕は中国には行こうと思っていました。
ニューヨークでの指導体験と中国への思い
ー 酒谷
もともとニューヨーク大学にいる時に、ウィリアム・チェンという中国系の天才少年、中学生がいて、あまりにも出来るので、面倒を見きれないということで、中学校長がニューヨーク大学の学長に「面倒を見てくれ。」と言ってきたんだそうです。
その時はまだ中学生でしたが学長はいろんな研究室に頼んでいって、なぜか最後に僕のところに来たんです。
ー 須毛原
それはアジア系だからってことですか。

ー 酒谷
どうなんでしょうね。まあ、それも関係しているかもしれないです。で、来たんですけど面白い子で、いろいろ教えたら本当に吸収力がすごいんですよ。僕の持っている本とかどんどん読んで。最後に研究させたんです。その後、高校の時に、ウェスティングハウス・サイエンス・タレント・サーチ(※)という全米の科学コンテストに応募したいと言うので応募させたところ、全米3位になったんですね。
※Westinghouse Science Talent Search. 2017年以降はリジェネロン・サイエンス・タレント・サーチ(Regeneron Science Talent Search)。
それで奨学金をもらえたんです。ご存知かもしれませんが、アメリカはいくら勉強ができてもお金がないと上に行けないんですよね。それで結局彼は、僕がちょうど兼任していたイェール大学に、その奨学金で行けることになりました。
その4年後にニューヨーク大学の医学部に戻ってきて医者になって、今はシカゴ大学で小児科か何かをやっています。
ー 須毛原
先生が面倒を見られた時、彼はまだハイスクールだったと。
ー 酒谷
ええ、最初は中学生で、中学、高校1年、2年、3年とね、結構長いこと見たんですよ。
ー 須毛原
それは大学に所属せずに見ていたということですか。
ー 酒谷
週末ですね。週末に来ていたんです。僕は週末も働いていたので。彼はとても勉強熱心で。
ー 須毛原
なんだか校外学習みたいですね。天才を育てるみたいなのがあるんですね。
ー 酒谷
中学にしろ高校にしろ、そこで天才教育をするというシステムがあの時代にはまだなかったので、それで大学に預けたんですね。
ー 須毛原
アメリカの社会ってそういうのがすごいですね。天才を見つけたら何らかの形で伸ばそうとするのが、すごいです。
ー 酒谷
すごいと思いますよね。僕はその経験があるんで、その時中国人は賢いと実感しました。恵まれないけれどできる子がいっぱいいるに違いないと、中国に行きたいと思っていたんです。
ー 須毛原
なるほど。ニューヨークでの天才少年との出会いが、先生を中国へ向かわせたわけですね。
ここまで、先生の進路選択に影響を与えた方々のお話はお聞きしましたが、医学を志すきっかけになった本などがもしあれば教えていただけますか。
ー 酒谷
そうですね、「クローニン」という作家の『天国の鍵』や『城砦』。いわゆる赤ひげ的な話なんですが、クローニン自身が医師出身だったこともあり、病気の人や貧しい人々への献身的な姿が非常にリアルに描かれていて、そういう本にはすごく惹かれた気がしますね。
イタリア・ベルガモでの客員教授としての活動
ー 須毛原
先生のご経歴を拝見すると本当にグローバルにいろいろなところでご活躍されていて、ニューヨークと中国の次にイタリアにも行かれていますよね。どういうきっかけでイタリアと縁ができたのでしょうか。
ー 酒谷
イタリアは今もお付き合いがあって、「AICOG」をイタリアでという話をしているんですけれど、実は10年ぐらい前に、アンジェロ・コンパーレ教授(Dr. Angelo Compare)が僕にメールを送ってきたんです。
その方は心理学の先生で、ストレスの研究など脳機能の研究者です。僕は先ほど話した浜松ホトニクスとの共同研究で、光で脳機能を見る研究をして発表したりしていたんですが、それを目にしたらしく、ある日「ぜひ来てほしい」とメールが来たんです。
それで、講演に行き、客員教授になってほしいと言うので、当時は定期的に年に4回ぐらい行くようになりました。
ー 須毛原
何年ぐらい続けてらっしゃったんですか。
ー 酒谷
4、5年続きましたかね。ちょうど10年ぐらい前です。ミラノの近くにベルガモという街があって、そこは非常にユニークな街で、チッタアルタ(Città Alta)という高台とチッタバッサ(Città Bassa)という下町に分かれていて。チッタアルタという高台の方は狭い地域で、中世そのまんまで古い、例えば10世紀頃の教会とかが10個以上あって石畳で、その中に大学があるんですよ。だから行くのが楽しみでした。
ー 須毛原
兵庫、東京、ニューヨーク、北京、そしてベルガモですか。今お聞きしていることとは少しズレますけど、それぞれ全然違う魅力がありますか。
ー 酒谷
そうですね、それぞれカラーがありますよね。
ー 須毛原
どこが1番お好きですか。
ー 酒谷
食事が美味しいのはイタリアと中国ですけどね。ニューヨークの時は本当に忙しくて、5年間いたのに、あの自由の女神を見たのは帰る数ヶ月前ですよ。もう月、月、火、水、木、金、土、ずっと朝から夜まで仕事していたので、僕のあだ名は「ニューヨークモンク(僧侶)」だなんて言われていましたね。
脳外科医から工学博士へ〜二刀流への挑戦

ー 須毛原
先生のご経歴で、兵庫、東京、ニューヨーク、北京、ベルガモ、とグローバルにお仕事されていたのが一つですけど、もう一つは医学博士でありながら工学博士でもいらっしゃるということで、最近の言葉で言えば二刀流です。今、事業もやられていて、もしかしたら三刀流になるかもしれないのですが、医学をやりながら工学を目指されたきっかけというのは、どういったところなんでしょうか。
ー 酒谷
きっかけは、ニューヨークから戻った頃なのですが。海外から最初に戻ったのは、札幌医大というところで、それで手術のほうの世界にまた戻ったので、手術ばっかりしていたわけです。
ー 須毛原
そんなに期間が空いて手術に戻れるものなんですか。
ー 酒谷
結構大変だったんですよ。だから僕、札幌にあの時3年ぐらいいたんですけれど、1回もスキーに行ったことがなかったです。ずっと仕事。手術の器具を作るのが好きなんですよ。手術器具とか、手術の時に脳の機能を、あるいは脳腫瘍を見つける装置とか。
手術方法とか、そういうことがすごく好きだったんですよ。それでたまたま、北大の工学部と共同研究することになって、北大に、1990年代ですかね、社会人入学制度というのができたんです。一緒にやっていた北大の工学部の先生に「社会人入学制度ができたんだけど、やりませんか」と言われて。
ー 須毛原
大学でお医者さんをしながら社会人入学したんですか?
ー 酒谷
そうです。昼間手術して夜は大学行って、みたいな。
ー 須毛原
すごいですね、それは。何年くらいで博士課程をとれたんですか。
ー 酒谷
結局、何年かかったかな。研究を始めてからだと5、6年かかったと思います。学位の研究は、盆暮れだけの休みにやって。JICAで北京に派遣されていた時は、1ヶ月の夏休みに一時帰国して北大に行って、実験して。だから結構時間かかりましたけれど。そうやって博士課程をとったのは98年ですね。
日本の『白い巨塔』とアメリカの実力主義
ー 須毛原
先生は多くの国を跨いで研究や臨床を続けて来られたわけですが、医療の世界は国によって研究環境などがかなり違うんじゃないかなと思います。実際どのような違いを感じられましたか。
ー 酒谷
そうですね、向こうはやっぱり実力主義というか、年齢的な上下があんまりないんですよね。日本の場合は、よく言われる『白い巨塔』の感じで。あの感じそのままの環境に僕はいたわけですよ。もうそれが辛くって、辞めて行ったんです。
普通は自分の大学に籍を置きながら留学して、帰ってくるんですけども、僕は辞めちゃったんです。大阪医科大学を卒業して、そこで6年いて、自分で留学先を見つけてきたんですね、ニューヨーク大学。それが教授の気に食わなくて、怒られて(笑)。
ー 須毛原
結局、やめちゃったんですか。
ー 酒谷
やめちゃった。だからもう背水の陣という感じで。当時まだ32歳でした。
ー 須毛原
すごいですね、それは。これから生活基盤をどこで作ろうかなという時に出て行かれたというのは、勇気づけられる話ですね。
ー 酒谷
今だったらあんなことしないですね。
ー 須毛原
アメリカの環境は、やはり素晴らしい環境でしたか。
ー 酒谷
そうですね。僕は結局2年目に助教授になれたんですよ、たまたま。33歳のときですね。自分の研究室も持てて、良かったです、非常に。
ー 須毛原
33歳で助教授というと、アメリカでも若いんじゃないですか。
ー 酒谷
若いんですよ。留学生仲間からはすごく羨ましがられて。
ー 須毛原
ですよね。自分の研究室というと予算もつくでしょうし。
ー 酒谷
大型のNIH(アメリカ国立衛生研究所)の研究資金が取れたんですよ。ですから、それなりに人を雇うこともできて。
ー 須毛原
アメリカは年功序列ではなくて実力主義で、だから評価されればいろんなことができるという感じですね。
『中日友好医院』での6年間

ー 須毛原
そこから1995年に中国に移られるわけですが、1995年というと私もずっと中国に関わっているからわかりますが、肌感覚ですごい違いですよね。
ー 酒谷
まあそうですね。1回札幌医大に入っているので、一応、間はありましたけど。当時の中国はそういう意味で言うと本当に日本の高度成長期みたいな感じで、やる気はあるんですよ、若い人とか。でも教えてくれる人がいない。
ご存知だと思いますけども、いわゆる文化大革命の頃の方というのが、ちょうど教える立場の年齢の50代、60代。でもその人たちは、そういう教育を受けてないから教えられないんです。たまたま僕がそういうところに入ったんで、若い人がいっぱい来たんですよ。中日友好医院のいろんな科の人が10人ぐらい来て。
ー 須毛原
病院ではどういうお立場だったんですか。
ー 酒谷
最初は、実はボランティアで行ったんですよ。
ー 須毛原
無給で行っていたんですか。少し話がズレますが、無給でビザって取れるものなんですか。
ー 酒谷
呼んでくれたんですよ、向こうの先生が。たまたま日本の脳外科の学会で、中日友好医院の副院長で脳外科部長の左先生と会って「将来中国に行きたいんだ」と言ったら「ぜひ来い」と言っていろいろしてくれて、それで行けることになったんです。結局6年いましたかね。
ー 須毛原
その間、中国の医療の現場で先生が日々向かわれた医療、いろいろな課題を通じて、中国の同僚の方たちとか、患者さんとか医療の環境とか、何か印象に残ったエピソードとかありますか。
ー 酒谷
そうですね。私の行った中日友好医院は日本のODA(政府開発援助:Official Development Assistance)でできた病院なんです。施設設備も良かったし、医者も看護師も日本で研修できるんで、日本語を喋れます。ですから非常にある意味働きやすかったし、悪い印象は全然なくて。みんなとうまくやれたというのはありますよね。
ー 須毛原
先生にとって、その時の中国の印象は非常に良かったと。
ー 酒谷
良かったです。向こうもすごく大切にしてくれました。最初ボランティアで来てくれたことが嬉しいみたいな。今も交流関係はありますよ。
酒谷先生の、日本の医療界を飛び出し、ニューヨークや中国、イタリアといったグローバルな舞台で活躍されてきたチャレンジ精神、そして医学博士と工学博士という異分野を融合させた稀有なキャリア。その根底には、ご自身の技術を社会に還元したいという一貫した熱意を感じました。
最終回となる次回は、AI予防医学研究所のコア技術である「AICOG」の誕生秘話、酒谷先生が目指す「幸せを目標にした医学」、そして先生の大きな夢と座右の銘について、さらにお話を伺います。
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