スタッフエッセイ

私の中国見聞録⑤ 春節の旅(3) 2022.02.04 スタッフエッセイ by 板橋清

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 北京留学時の春節の思い出。ここまでのお話は、春節の旅(1)(2)で・・・・・。

 大晦日の夜は家族で過ごした。餃子を突きながら「春晩」(中国の紅白歌合戦のような番組)を見て、年越しを待つ。「春晩」を見るのは初めてだったが、盛大なものだ。驚くべき数の人が、華麗な衣装とともにステージに現れて、歌だけでなく様々なパフォーマンスを披露する。「中国人はケチくさいことが嫌いなんだよ、賑やかなのが好きなんだ」と、数日前火鍋をご馳走してもらったときに友人の伯父さんに言われたのを思い出した。新しい年の始まりは華やぎに満ちていた。

 年が明けて旧暦の1月1日、家族に連れられて、私たちは車で20分ほどのところにあるお父さんの実家に向かった。車を少し走らせるだけで周りの景色は一気に変わり、林と畑と、レンガの崩れかけた古い家ばかりになる。のどかな農村だ。時々爆竹のはぜる音がどこかから聞こえた。

 「着いたよ」と言われて車を降りると、驚くような光景が目に入った。家と畑の間の庭にたくさんの机が出され、ざっと100人くらいの人が集まって賑やかに談笑していたのである。これ全部親戚なの?と聞くと、友人は何事もなさそうに「そうさ」と答える。「僕もよく知らない人がいっぱいいるけど」。それはそうだろう!私の家など盆暮れで親戚が集まるといってもせいぜい十数人だし、それだって誰の何だかよく分からないおじさんやおばさんが何人もいるのに。そんなことを考えているといつの間にか親戚がたくさん寄ってきて、「まあ、よく来たね」「こっちで食べなさい」と次々に世話を焼いてくれた。そろそろこの地域の方言にも慣れてきて、少しは言っていることが分かるようになってきた。

 卓に並べられた色とりどりの食事とお酒をいただきながら、周りの親戚たちと話をした。この家の近辺で暮らしている人にとっては特に、我々外国人は珍しいようで、興味津々という感じで質問される。そうこうしていると、突然むこうから若い女性がやってきて、「はじめまして。あなたたちね、彼のお友達は」と流暢な日本語で話しかけられたのでびっくりした。年は30代前半か。聞けば20代初めに留学して以来、もう長いこと福岡に住んでいるらしい。春節だから遥々飛行機で帰ってきたというのだ。しばらくの間、楽しい談笑の時間が続いた。

 やがて、話は若者の将来の話になる。「北京大まで行って、あんたは一体何になるんだろうねえ」と卓にいた50代くらいのおばさんが友人に言った。「さあね、決めてないよ」と彼。すると「お友達みたいに、留学しようとは思わないの」と、例の福岡に住む親戚が口を挟む。「やめて頂戴よ。ただでさえ北京まで行っちゃったのに、これ以上遠くになんか行かないわよね。お父さんとお母さんをどうするのよ」とおばさんが言う。「でもおばさん、若い頃は色々世界を見るのがいいわ。私だって外国に1人で暮らしてるけど、みんなを忘れたわけじゃない。いつかお父さんもお母さんもおばさんも、みんなを連れて行きたいと思ってるのよ」と彼女が反論すると、おばさんは何とも面白くなさそうな表情をした。

 友人の親世代以上の親戚たちは、この近辺で暮らしている人が多いようだった。私の友人や福岡に住む彼女のように外に出ているのは少数で、若者ばかりらしい。彼らの考え方にギャップがあるのは当然だった。さらにいえば、集まった人の中には40代以上と思われる人が圧倒的に多い。若い世代は皆一人っ子なのだろう。そう思うと、確かにあのおばさんの言うように、ただでさえ少ない若者が外に出てしまったらこの家は一体どうなるのだろう……と考えてしまう。春のはじめのこの華やかな「団円」の裏に、一抹の翳りが隠れているように思われた。

 数日前に火鍋を一緒に食べたおじさんが「おおい、行くぞ」と言い、少し離れたところで爆竹を鳴らした。どこかで歓声が上がる。賑やかだった。きっと何十年、何百年も前から毎年これが繰り返されてきたのだろう、と思った。人は変わるが、土地はいつまでもそこにある。物事に多少の変化があったとしても、根本的なことは結局、そう簡単に変わらない。大陸にいるとそんなふうに感じることが増える。彼らの「団円」もきっと、様々なことが変わったとしても何かの形で続いていくのだろうと、私は思い直した。

 その後何日か綿陽に滞在したのち、私たちは北京に帰った。大都市で大学の中にいるだけでは見えないものをたくさん見ることができたと思う。やはりこの国は広い。まだ自分に見えていない顔をたくさん持っている。そんなことを感じさせられた、春節の旅だった。

by 板橋清

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