スタッフレポート

中国の共同富裕ー日本人の私から 2021.11.09 スタッフレポート by 沖虎令

  • facebook
  • twitter

 よく知られるように、1789年のフランス革命のスローガンは「自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité)」である。

 自由と平等を、フランス革命時の「人間と市民の権利の宣言」では以下のように定義している。

 「自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。その倫理的な限界はこの格言にある通りである――己の欲せざる所は人に施すなかれ。」

 「平等とは、保護を与えるにせよ、罰を与えるにせよ、法は全ての人間に対して同一であるということである。生まれによるどのような差別も、また権力のどのような世襲も許されない。」(Wikipediaより)

 日本人は自由・平等をワンセット、どちらも欠けることを許さない、と漠然と思っている人が多いようにみえる。平等を政治的平等=民主と考えており、自由民主党、という名は政党としてどうあれ理念としてはまっとうとみられているだろう。

 さて、中国はどうか。日本はじめ諸外国では、中国は自由、平等な国ではない、と考えている人が多いだろう。

C:\Users\d5036810\Pictures\自由.jpg

 写真は中国の街角でよく見かけるポスター。自由、平等、友愛(友善)に民主も国として掲げており、その他も日本語の意味とほぼ同じ。考えられる良い方針、施策を網羅している。建前をしてはこうなっている。

 では、自由、と平等、どちらを重視するのか、ということになると、日本人は自由を取る人の方が多いのではないだろうか。日本人は自分の主張をせず、従順に流される、個性が無い、とよく言われるが、全くそんなことはなく、好きなことを他人を気にせずにやっても、奇人・変人とみられるだけで、思想改造まではしない。そういう人が生きる場所を持つ世の中は文化的だと考えている。日本には過去から異端の芸術家や文学者が数多くおり、孤立を余儀なくされるが、社会的に抹殺されたり実際に殺される、ということはない。陰でひっそり自分の道を歩むことが許される。頭の中は制限されない。漫画やアニメが日本で発展したのはどんな題材もタブーが無く取り上げることができることも理由の一つだろう。

 世界的にみると、主に宗教、政治、慣習のために孤立した思考が許されない国、地域がほとんどだ。イスラム、キリスト教、ヒンズー教などは生活に密着しており、逸脱するとその国、地域に居られなくなる。中国やロシアは政治が縛っている。ヨーロッパでは伝統的な習慣を持続することが求められ、維持している。

 中国に戻ると、自由、平等のどちらを取るか。このところ、それは明らかに平等に傾いている。共産主義で共産党なのだから。最近中国で急に提唱されている『共同富裕』は平等のために自由を犠牲にすることは当然、という形で推進されている。そのため、自由により成長したIT企業の億万長者はおとなしくしなければならない。

 長く自由と平等の両立を実現すべく、努力し、失敗し続けている欧米諸国は「自由を放棄し共同富裕を実現する」という中国に対し強烈な違和感を感じている。そのような世界は多様性に欠ける可能性が高い。みな同じ方向を向いて枠組みの中に留まる、という社会。これは欧米諸国から見て、ただ生きているだけ、と捉えられるだろう。

 共同富裕の推進と同時に、中国は社会の標準化を進めている。どのメディアも、結婚して子供と持ち、両親を大切にし、一家団欒、という形式で社会を表現している。商品の広告は必ず家族で愛用、のパターンである。これは、人口減少対策の一環でもあろう。そのため、中国政府はかつては批判した儒教の、孝行・忠実・信義を持ち出して教育の中心に据えている。儒教は漢民族の伝統で、チベットやモンゴルの人には関係無いはずだが。

 しかし、現実は都市を中心に、経済的理由で結婚できない独身者が増加し、離婚が多く、地方都市や農村では出稼ぎによる家庭の崩壊、地域の過疎が普遍的に拡大している。中国は以前、同性愛を違法としており、今でも同性愛者は精神異常、という論調がまま見られる。標準化を進めてゆく中国社会は、LGBTの人たちには今後より住みづらくなるだろう。

 自由を封印して平等に傾斜する方針は、今の中国の体制だと当分変わらないと見られる。だが、何事もなく進展するとも思えない。

by 沖虎令

ブログ一覧に戻る

PAGETOP