フィジカルAI(現実世界で判断し、行動するAI)をめぐって、今週の日本は大きく動きました。2026年7月16日、経済産業省が対外発信イベントを開き、国産AI基盤モデルの新会社「Noetra(ノエトラ)」が本格始動。
会場には米NVIDIAのジェンスン・フアンCEOも登壇しました。
この動きは、単なる一過性のニュースではありません。日本という国が「フィジカルAIをどう勝ち取るか」を決めた、その方針がはっきり見えた出来事でした。
本記事では、日本政府のフィジカルAI戦略(AIロボティクス戦略)の動きを4つのステップで、専門用語もかみ砕きながら整理します。結論を先に言えば、日本の戦略は「全部を自前で(オールジャパン)」ではなく、「日本の強みと世界最良の要素を、安全に組み合わせて勝つ」というものです。
ヒューマノイド(人型ロボット)、自動運転、産業用ロボットなどが代表例にあたります。
① 日本政府が、フィジカルAIに本気で動き出した
7月16日、経産省イベントで何が起きたか
まず事実から確認しましょう。7月16日のイベントには、ノエトラに出資するソフトバンク、ソニーグループ、NEC、ホンダなどの幹部が集結しました。
この分野の政策を主導する赤澤亮正経済産業相は、「技術で勝ってビジネスで勝ち切る」と決意を述べています。国産の基盤モデル開発に、官民が足並みをそろえて動き出したことを示す象徴的な場となりました。
「AIロボティクス戦略」が掲げる2つの国家目標
この動きの土台にあるのが、政府が2026年3月に策定し、6月30日に改訂した「AIロボティクス戦略」です。戦略は2つの大きな国家目標を掲げています。
ひとつは、国際競争力です。2040年までに約60兆円規模へ育つと見込まれる多用途ロボットの世界市場で、「米中に並ぶ第三極」として3割超のシェア(20兆円規模)を確保することを狙います。
もうひとつは、社会実装です。2040年までに国内へ約1,000万台のAIロボットを導入し、対象領域を従来の16分野に「飲食・食品製造」「医療」を加えた全18分野へ拡大しました。
短期的には、点検・搬送・清掃・入出荷(パレタイズ)・ハンドリング・溶接塗装など、多くの現場で共通するタスクから先行導入を進める方針です。
官民10.5兆円──フィジカルAIは「戦略17分野」の中核
投資規模も具体化しています。政府は2040年度までに官民合わせて総額10兆5,000億円をフィジカルAI開発に投じる方針で、フィジカルAIは、AI・半導体・造船などと並ぶ「戦略17分野」(17分野全体で総額370兆円規模の官民投資)の中核に位置づけられました。
背景にあるのは、深刻な人手不足です。戦略は「人口減少・少子高齢化を背景として、幅広い産業・地域において構造的な人手不足が深刻化している」とし、AIロボティクスによる労働力の補完を掲げています(経済産業省の就業構造推計では、2040年にAI・ロボット等の利活用人材が約326万人不足すると試算されています)。
つまりフィジカルAIは、日本の人手不足を解く切り札として、国家最重要テーマの一つになった──これが出発点です。
導入が広がる18分野と、先行する共通タスク
戦略とあわせて公表された「AIロボティクス実装ロードマップ」は、どの分野から社会実装を広げるかを具体的に示しています。対象となるのは、製造業(多品種少量生産)、造船、物流(倉庫・輸配送)、建設・土木、建築、インフラ保守、小売、宿泊業、介護、警備業、農業、林業、廃棄物処理業、災害対応、警察活動、防衛の16分野。
改訂版ではこれに「飲食・食品製造」「医療」を加えた18分野へと拡大されました。
進め方には順番があります。短期では、多くの現場に共通する比較的取り組みやすいタスク──点検(屋外・半屋外)、点検(屋内)、搬送(屋外・半屋外)、搬送(屋内)、清掃、入出荷・パレタイズ、ハンドリング、溶接・塗装の8つを先行対象に選び、「見廻る」「モノを動かす」といった動作から実装を広げます。
中長期では、分解・組立のような器用さを要する「指作業」など、技術的なハードルが高いタスクへと段階的に挑んでいく計画です。つまり一斉普及ではなく、成果を出しやすい領域から着実にデータと実績を積み上げていく──これが政府の描く現実的なシナリオです。
② 政府は「全部を自前で」とは言っていない
キーワードは「疎結合」と「SDR」
ここが、多くの人が誤解しがちなポイントです。
日本は、ハードもソフトもすべて国産でまかなう気なのか? 答えはノーです。
戦略はむしろ、産業のかたちそのものの転換を掲げています。「従来の密結合型(各用途専用のソフトウェアとハードウェアを一体的に作り込む形)から、低コスト化に効果のある疎結合型(最適な機能モジュールを標準的なインターフェースで統合し、現場へ実装する形)へと産業構造が転換しつつある」というのです(出典:経済産業省「AIロボティクス戦略」)。
近年はAIで定義・更新する「AIDR(AI Defined Robot)」と呼ばれることもあります。ポイントは、”身体(ハード)”と”頭脳(ソフト)”を切り離して考える、という点にあります。
戦略はさらに、供給構造についても「ロボットメーカーを中核とする垂直統合型のモデルに加えて、ファブレス、製造受託企業(EMS)、SIer等で構成されるオープンな水平分業型の産業構造の形成も促進する」としています。つまり政府は、「ハードとソフトを一体で作り込む」時代から、「頭脳と身体を分離し、標準インターフェースで組み合わせる」時代への移行を、国家戦略として明確に打ち出しているのです。
海外連携は否定されず、むしろ推奨されている
「分離して組み合わせる」以上、組み合わせる相手には海外も含まれます。戦略は「我が国が強みを持つ製造業等の現場データの活用や海外研究機関との連携を通じて、ロボット基盤モデルの開発能力を強化する」と明記し、国産基盤モデルについても「国内の研究開発基盤を中核に据えつつも、海外のトップ研究機関や企業と連携し、世界水準の研究開発速度と性能を確保する」としています。
海外との連携は、否定されるどころか、勝つための必須条件として位置づけられているのです。
実例:ノエトラの「頭脳は国産、計算基盤はNVIDIA」
その考え方を、今週始動したノエトラがそのまま体現しています。ノエトラは、国産の「マルチモーダル基盤モデル(頭脳)」を自前で開発する一方、それを動かす計算基盤にはNVIDIAの最新GPU「Rubin」を約2万7,500基採用します。
頭脳とデータは日本で握り、世界最良の要素は積極的に取り込む。「分離して、組み合わせる」──これが日本のフィジカルAI国家戦略の実像です。
③ ただし、経済安全保障は絶対条件
「特定国への過度な依存」を避ける
もちろん、無条件に何でも使ってよいわけではありません。ここが③の肝です。
戦略は、「AIロボティクスの中核となるソフトウェアスタック、部品・コンポーネント、設計・量産・保守体制を国内に確保することは、経済安全保障上の重要課題」とし、「特定国・特定企業への過度な依存を回避」する方針を明記しています。海外の力を使うことと、依存しきってしまうことは別だ、という線引きです。
データと通信のガバナンス──閉域網・アクセス制御の要件化
さらに戦略は、フィジカルAIが扱う現場データについて、「外部に不適切に流出することのないよう、閉域網の活用を含む堅牢なセキュリティ対策、アクセス制御、保存・移転管理等を講じ」ることを求めています(出典:経済産業省「AIロボティクス戦略」)。
「閉域網」とは、外部インターネットから切り離した専用ネットワークのこと。データを外に出さずに運用するための、代表的な安全策のひとつです。
ルールは「箱は海外でも、制御点は日本」
まとめると、政府が示したルールはシンプルです。箱(ハードや計算基盤)は世界最良のものを使ってよい。
ただし、データと通信のガバナンス、そして制御点は日本が握る。海外の力を「丸投げ」ではなく「主導権を持って使う」──これが条件です。
②の「海外連携の推奨」と③の「経済安全保障」は矛盾しません。両者をつなぐのが、この「制御点は日本」という一線です。
④ 先行する「中国の実態」はどうなっているのか
「米国の頭脳×中国の身体」が世界の現実に
ここまでで、土俵が見えてきました。日本は、経済安全保障を担保したうえで、海外の力を賢く組み合わせて勝ちにいく。
では、その”身体”を担う最有力プレイヤーは誰か──量産で世界を圧倒し、いま最も先行しているのが中国です。
その象徴が、2026年6月のCOMPUTEXでした。NVIDIAが自社のヒューマノイド向けAI基盤「Isaac GR00T」のリファレンス機として、中国Unitree(ユニトリー)社の「H2 Plus」を採用したのです。
米国の頭脳に、中国の身体が組み込まれる──この分業は、もはや世界の現実になりつつあります。
一方、四足歩行ロボット(犬型など)は安定性が高く、階段や狭所の巡回・点検で先行して実用化が進んでいます。中国企業はこの両方で量産・実装を急速に進めています。
なぜ「中国の実態を知ること」が出発点なのか
だからこそ、日本企業にとって決定的に重要なのは、「中国の実態を正しく知ること」です。どの企業が、どの現場で、どこまで実装できているのか。
何がまだできないのか。そして、その量産力を、経済安全保障を守りながら安全に組み合わせるには、どう設計すればいいのか。
ここを曖昧にしたまま「中国製だから避ける」「安いから使う」と判断するのは、最も危険です。政府が示した「分離して、安全に組み合わせる」という戦略を自社の現場で実行できるかどうかは、この一点にかかっています。
「避ける」でも「丸ごと使う」でもない、第三の道
現実的な選択肢は、二者択一ではありません。中国が圧倒的に強いハードウェアの量産力を活用しつつ、日本は運動制御・基盤モデルという「頭脳」、現場ごとの「業務アプリ」、そして「データガバナンス」という制御点を握る。
これは、まさに政府戦略が掲げる「疎結合・SDR」の考え方を、ロボットの身体調達にまで一貫させた発想です。中国製か日本製か、ではなく、「何を握り、何を組み合わせ、どう安全に管理するか」──これが問われています。
まとめ─今週、日本は「組み合わせて勝つ」道を選んだ
2026年7月のこの1週間で、日本政府はフィジカルAIを国家の最重要領域の一つに明確に位置づけ、10.5兆円の投資と国産基盤モデルという具体策を動かし始めました。その中身は、全てを自前でまかなう孤立主義ではなく、日本の強み(現場データ・ものづくり・統合力)を軸に、世界の最良要素を安全なガバナンスの下で組み合わせる、という現実的な戦略でした。
企業にとっての示唆は明快です。フィジカルAIの導入で問うべきは「国産か、外国製か」という二者択一ではなく、「何を自社(日本側)で握り、何を世界から取り込み、そのデータと通信をどう管理するか」という設計です。
そしてその設計の出発点は、いま最も先行する中国の実態を、正しく知ることにあります。
【無料オンラインセミナーのご案内】
「中国フィジカルAIの実態」と「日本企業が取るべき次の一手」を、最新レポートの実データと具体事例をもとに解説します。
「中国フィジカルAIの実態と、日本企業の次の一手」
中国の主要企業と実装領域、日本企業が担える頭脳・業務アプリ領域、そして経済安全保障とデータガバナンスを踏まえた「安全な組み合わせ方」まで踏み込みます。政府が示した戦略を、自社の現場でどう実装するか──その答えを持ち帰ってください。
注釈:ノエトラ(Noetra)とは
AIロボットやフィジカルAIの基盤となる「国産マルチモーダル基盤モデル」の研究開発を担う新会社(本社:東京都渋谷区、代表取締役社長:丹波廣寅)。ソニーグループ、ソフトバンク、NEC、本田技研工業を中核に、製造業などAI活用を進める幅広い業種を含む計44社が出資しています。
産業技術総合研究所やPreferred Networksの技術者を中心に研究開発を進め、NVIDIA製GPU「Rubin」約2万7,500基のAI計算基盤を2027年4月に構築開始、2028年6月から稼働させる予定です(出典:Noetra株式会社 プレスリリース、2026年)。
出典
- 経済産業省「AIロボティクス戦略 ~社会実装を加速し、巨大市場を切り拓く~」(本文・概要/内閣官房「AIロボティクスに関する関係府省連絡会議」。初版:2026年3月26日、改訂版:2026年6月30日)。「密結合/疎結合」「SDR=Software Defined Robot」「特定国・特定企業への過度な依存を回避」「閉域網の活用を含む…アクセス制御、保存・移転管理」等は同戦略本文より。経済産業省ホームページ https://www.meti.go.jp/shingikai/mono_info_service/ai_robotics_strategy/index.html
- 日本経済新聞「AIロボット導入目標、18分野で2040年に1000万台 経産省」(2026年6月30日) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA302FQ0Q6A630C2000000/
- 日本経済新聞「フィジカルAIに10.5兆円 戦略17分野への官民投資370兆円、40年度まで」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA18CWY0Y6A610C2000000/
- 時事通信「『フィジカルAI』で競争優位へ 経産省のイベントで官民が決意共有」(2026年7月17日)
- 赤澤経済産業相 記者会見(2026年6月30日)
- Unitree/NVIDIA「Unitree Announces H2 Plus, an NVIDIA Isaac GR00T Reference Humanoid Robot」(PR Newswire, 2026年6月) https://www.prnewswire.com/news-releases/unitree-announces-h2-plus-an-nvidia-isaac-gr00t-reference-humanoid-robot-for-academic-research-302786748.html
- Noetra株式会社 プレスリリース「国産マルチモーダル基盤モデルの開発に向けて本格始動」(2026年)