有限会社エコ・ライス新潟 代表取締役 豊永 有氏にお話を伺う第2回。
今回は豊永氏の農業への想いの原点であるタイでの経験と、エコ・ライス新潟設立までの経緯についてお話いただきます。

豊永 有氏 プロフィール
【現職】
有限会社エコ・ライス新潟 代表取締役
農地所有適格法人株式会社和 取締役
ながおか若者しごと機構 アドバイザー
新形質米利用研究会 会長
長岡機能性食品創造研究会 事務局長
新潟県山田錦協議会 事務局長
【資格】
農産物検査員(農水大臣認定)/防災士/その他、民間資格15
【主な経歴】
IDSデザイン大賞受賞、IDS THE BEST賞受賞
フードアクションニッポンアワード 優秀賞5回
青少年の体験活動推進企業 文部大臣賞受賞、審査委員会奨励賞受賞
輸出事業計画 農林水産大臣認定
地域未来牽引企業選定 経済産業大臣認定
災害食大賞2018 特別賞、復興支援賞受賞
民間放送連盟テレビ報道番組部門優秀賞受賞
フジテレビドキュメンタリー大賞特別賞
他、アルファ化米食品をはじめとする米製品の製造に関する特許、実用新案、商標権を多数取得

- Vol.1「新潟から世界へ。エコ・ライス新潟の挑戦。」
- Vol.2「農業の原点となったタイでの経験とエコ・ライス新潟の成り立ち。」
- Vol.3「震災からの再生。食と酒を通じて広がる多様なネットワーク。」
- Vol.4「海外から見た日本米の魅力。米文化を世界の食卓へ。」(2026年7月21日公開予定)
- Vol.5「次世代の農業へ。垂直型太陽光パネルと食の未来図。」(2026年7月28日公開予定)
「長岡」を拠点に選んだ理由と起業の経緯
ー 須毛原
遡って、エコ・ライス新潟さんの会社の成り立ちについてお伺いしたいと思います。2002年に無農薬、減農薬に取り組む生産者の方々が共同でお米を販売するために設立された会社で、生産者が県内全域に広がっているために、ちょうど新潟県の中心にあたるここ長岡で会社を立ち上げることになったとお聞きしています。このプロジェクト自体に豊永さんが入られたのか、そこに招へいされたのか、そのあたりの経緯からお伺いしてもよろしいでしょうか。
ー 豊永
この会社に関しては、最初の企画の段階から、一緒に作りましょうということで入っています。長岡周辺というのは流通団地が多いんですね。東京にも行けるし、大阪にも行ける、東北の方にも行ける。特に関東大震災のような首都直下型地震が起きた時に、日本海側で供給できるのは新潟ぐらいしかないんです。そういう意味ではここは陸路の利便性が非常に高いので、この土地に会社を立ち上げました。有機栽培農家があちこちに散らばっているので、「集まるとしたらここがいいよね。」と、みんなでいろいろ話し合って決めました。
ー 須毛原
新潟県の方がリードして企画されたということではなく、豊永さんが企画して新潟を選んだという形でしょうか。
ー 豊永
最初は新潟の方が選んで、実務段階で私が入ってきたという形です。もともと私は井関農機という農機具メーカーにいて、日本全国いろいろなところを見ていたのです。その中で新潟というのはやはり地の利もありますし、ある意味豊かなんですよね。そういうところでないと、有機栽培とかそういうのが広がっていかないかなと思っていました。
ー 須毛原
豊永さんはもともとご出身が東京で、東京農業大学を出られて井関農機に勤務されて、そこから米の生産や流通をいろいろと見られていたということですが、そこから長岡で農業へというのは転機だと思うんですよ。サラリーマンから起業家、アントレプレナーとなって、且つ見知らぬ土地に行くという、その決意はすごいと思います。
文化を伝え、理解を深める海外展開

ー 豊永
もともと私の父が転勤族だったんですね。そして、本当に小さい頃から常にテレビがついている家庭でした。『ジャングル大帝』とか、そういうのがものすごく好きで。だから将来はアフリカに行って橋とかダムを作りたいと思っていたんですね。ただ、16歳の時にタイの難民キャンプに行って、カンボジア難民がいて。そこに行った時に、難民キャンプには支援がたくさん来るけれど、当時のタイの農村ってすごく貧しかったんですね。それを見た時に、橋とかじゃなくて食料だと思って、それまでは高専に通っていたのをやめて、農業大学の方に進みました。その時に青年海外協力隊などもたくさんあったので、私も行きたいと思ってそういう活動もしていたのですが、先輩方がアフリカや東南アジアに行って帰ってくると、言い方が乱暴なのですがちょっとしたアジアボケとかアフリカボケをしてしまうというか、日本社会に馴染めないんですよ。それを見ていて、日本で何か共感を得るためには、やはり一度自分がサラリーマンにならなくちゃいけないと思い、井関農機に入ったのです。ゆくゆくはそこから海外に出たいと思っていました。
ー 須毛原
そもそも、タイ難民キャンプに行くきっかけは何だったんですか。
ー 豊永
その頃、1979年から80年にかけてポルポト政権がベトナムに倒されて大量の難民が出てきたんですね。それが初めて日本テレビの24時間テレビとかで大きく報道されて。
ー 須毛原
いわゆる『キリング・フィールド』で描かれていた、ポルポト政権の時代ですね。
ー 豊永
『キリング・フィールド』まさにその世界ですね。
ー 須毛原
あの映画、すごかったですよね。ショッキングでした。
ー 豊永
報道を観て、それまでバイクを買いたいと思ってバイトで貯めていたお金で、行かなくちゃいけないなと思って行きました。高2の時ですね。今ある日本国際ボランティアセンター、国際NPOの第1号のところの、私は第1期生にあたるんですよ。
ー 須毛原
エコ・ライス新潟さんで海外って突飛な感じがしていたのですが、逆なんですね。そもそも海外志向があって、その軸とお米、食というものが、実は前からずっと一緒だったってことですね。
ー 豊永
学生時代にタイの農村に行った時に、トイレ作りのプロジェクトをやっていたのですが、現地のタイの学生から「もうお前来なくていいよ。自分の国を何とかしろよ、もうタイは俺たちが何とかするからさ。」と言われた時に、自分の国はどうなんだろうというのを考え出したんです。日本は先進国で、私たちは日本を追いかけていると彼らに言われて。彼らも日本で農家が少なくなっているのを当時でも知っていたんですね。日本の20年後、30年後がタイなんだと。そういう時にどうにかするっていうのは自分たちの役目だからと言われた時には、やはり衝撃を受けました。
ー 須毛原
そのタイの学生さんもすごいですね。意識が高いというか、視野が広いというか。
ー 豊永
そうですね。タイ族からすると下のレベル、いわゆる奴隷みたいな扱いの少数民族の手助けをしようとする学生たちだったので。
地方で起業するということ
ー 須毛原
その後、30歳で長岡に来られたわけですが、最初、来られた時の印象はどうでしたか。
ー 豊永
本当にその頃って、やっぱりよそ者でしかなかったんですよね。大変でした、その頃は。何をやっても叩かれましたし。
ー 須毛原
エコ・ライス新潟さんの中には新潟で育った方もいれば他から来た方もいると思いますが、エコ・ライス新潟さんがそういう立場になってしまったということでしょうか。豊永さんが東京から来られたからですか?
ー 豊永
農業関係でもそうでしたし、私は家を建てたのですが、周りの人たちもどうせいなくなるだろう、というような感じでしたね。
ー 須毛原
農業の世界では、エコ・ライス新潟さんは新潟の企業だから、豊永さんが東京から来たということとはあまり関係ないんじゃないですか。
ー 豊永
私が東京から来たことというよりも、農家の人たちと今までと違ったやり方、売り方をする、ということが理解を得られなかったのだと思います。
当時はまだ農協の集荷率は高かったので、自分で売ろうとするのは裏切り者なわけです。今は集荷率が25%ぐらいですが、30数年前はほぼ100%。食糧管理法がある頃はほぼ100%だったので。
ー 須毛原
なるほど。当時は大変な逆風の中だったのですね。
豊永さんが学生時代に経験したタイの難民キャンプでの気付きが、現在の長岡を拠点としたエコ・ライス新潟の成り立ちに繋がり、さらにその先の海外展開へと繋がっていることを知ることができました。
次回は、経営に大きな転換をもたらした2004年の中越地震と、その経験から生まれた酒造りや社会活動などについて触れます。
どんなことでも、お気軽にご相談ください。
https://sugena.co.jp/contact-us/
海外事業で課題をお持ちの方
●海外進出:https://sugena.co.jp/service/overseas-business/
●行政・自治体向けサポート:https://sugena.co.jp/service/local-government/
●海外企業との提携・オープンイノベーション:https://sugena.co.jp/service/open-innovation/
●開発・調達・製造支援:https://sugena.co.jp/service/cost-reduction/